• 背景色 
  • 文字サイズ 

杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第18回中井養三郎について


 明治36(1903)年から2年間、現在の竹島(当時はリャンクール島、リャンコ島と呼ばれていました)でアシカ漁をし、外務省、内務省、農商務省に「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を提出して、竹島の島根県の所属の道を開いたのは中井養三郎という人です。今回はこの人のことをお話しましょう。

 中井養三郎の略歴については、島根県所蔵の竹島関係行政文書『渉外関係綴』に残存していますし、最近発見され注目されている『竹島経営者中井養三郎氏立志伝』(写真1)で奥原碧雲氏がくわしく紹介しています。中井養三郎氏立志伝これらの資料によると、養三郎は元治元(1864)年1月27日、鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原で生まれました。父は甚六、母はウラといい、家業は醸造業でした。養三郎は明治11年に下田中小学校を卒業すると、松江へ遊学し、儒家内村友輔翁の門に入り漢学を学びます。明治18年になるとさらに漢学を深めんと東京に出ますが、大都会の熱気の中で学問から実業へ方向を変え、翌年には漢学を捨てます。時に23歳の時のことです。

 彼自身が履歴書に記していることによると、この頃から潜水器漁業に取り組むようになります。つまり、海鼠(なまこ)、鮑(あわび)等を捕獲する水産事業です。潜水器というのは、私が子供のころに見た、船上でポンプを動かして潜水夫に空気を送り、潜水夫は金属製の重い服を着用し、頭からスッポリ双眼鏡のついた円形のかぶり物を装着して、海中に降りて漁をするやり方のことだろうと推測しています。養三郎はこの事業をロシアのウラジオストクや朝鮮の全羅・忠清道、鳥取県の御来屋(みくりや)、隠岐、石見の沿海等で行いました。

 明治36年、彼は水産事業の一貫としてリャンコ島での海驢(アシカ)捕獲を企画することになりました。まず島の状況を把握しておく必要があると、同年5月同郷の小原岩蔵、隠岐の島谷権蔵とともにリャンコ島へ渡りました。特に小原氏とはその後2年間この島に小屋を作り、海驢漁を試みました。小原氏はこの時のことを「竹島出猟記」と題して記録しています。

 養三郎はこの水産事業は採算がとれると確信しますが、リャンコ島の領有権等を明白にしておく必要があると考え、明治37年「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を作成しました。島根県にその願書の写しが残っています。内容は、リャンコ島が日本領であることを明確にして欲しい、万一朝鮮領であるなら、朝鮮政府に貸下を要請してもらいたいというものです。彼が朝鮮領かもわからないと考えたのは何故だか従来不可解とされてきました。ところが数年前、『竹島経営者中井養三郎氏立志伝』の発見により理由がわかりました。それは、養三郎は「海図によれば同島は朝鮮の版図に属する」と思ったのです。

 その海図は、日本海軍が明治29年作成した「朝鮮全岸」だと思われます。海図は、船の航行の安全のために岩礁の存在や水深等が中心に記載されるもので、各国の境等は全く書かれていません。「朝鮮全岸」と大きな活字で書かれたこの海図には、もちろん朝鮮半島の沿岸も描かれていますが、山口県の見島も島根県益田市の高島も書かれています。養三郎は「朝鮮全岸」という題字に惑わされて、リャンコ島を朝鮮領かもしれないと考えたと思われます。

 東京へ出て内務省、外務省、農商務省に陳情した養三郎を、隠岐出身の農商務省水産局員藤田勘太郎等が応援しました。明治38年1月28日、政府は「明治36年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ差支無之儀ト思考ス」と閣議決定し、内務大臣が島根県知事に伝えました。島根県知事松永武吉は同年2月22日島根県告示として公表しています。

隠岐に帰った中井養三郎は、海驢漁の許可を県に申請しました。養三郎の外に井口龍太、加藤重蔵、橋岡友次郎といった人達も申し出ましたので、隠岐島司(とうし)の東文輔は共同事業とするよう勧告し「竹島漁猟合資会社」を設立させました。この会社から隠岐島庁に提出された報告書にアシカ捕獲数が載って入ますが、明治39年度1,385頭、同40年度2,094頭、同41年度1,660頭とあります。

 養三郎は大正3(1914)年まで竹島漁猟合資会社の代表社員という地位にあり、同年長男の中井養一にその地位を譲っています。養一は大正5年に旧制中学を卒業すると、自ら毎年竹島に渡り、会社のために陣頭指揮をとっています。

 また養三郎の故郷に、甥の中井金三という旧制鳥取県立倉吉中学の美術教師がいました。東京美術学校(現在の東京芸術大学)に学び、師に黒田清輝、同級生に藤田嗣治、岡本一平がいます。在学当時の明治42年に画題を求めて竹島に渡り、その体験記と竹島を描いた洋画を残しています。故郷の倉吉市立博物館には卒業制作作品の100号の大作「河岸」(隠岐のイカ干しの漁婦たちを描いた絵画)ほか20点余の作品が保存されています。

 竹島視察団記念写真

写真2:明治39(1906)年竹島視察団記念写真(島根県立図書館所蔵)

〔隠岐島庁前:最後列左から3番目が中井、前から3列目右から3番目が奥原碧雲〕


(主な参考文献)

  • 奥原碧雲『竹島経営者中井養三郎氏立志伝』個人蔵明治39(1906)年
  • 田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務部総務課昭和40(1965)年
  • 『隠岐島誌』島根県隠岐支庁昭和8(1933)年
  • 『西郷町誌』西郷町誌編さん委員会昭和50(1975)〜昭和51(1976)年
  • 『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』竹島問題研究会平成19(2007)年

お問い合わせ先

総務課

〒690-8501 島根県松江市殿町1番地 
TEL:0852-22-5012(総務係)
   0852-22-5917(予算調整係)
   0852-22-5014(文書係)
   0852-22-6249(法令係)
   0852-22-6139(情報公開係)
   0852-22-6966(公益法人係)
   0852-22-5017(私立学校スタッフ)
   0852-22-5015(県立大学スタッフ)
   0852-22-6122(竹島対策室)
   0852-22-5669(竹島資料室)
FAX:0852-22-5911(総務係、予算調整係、文書係、法令係)
   0852-22-6140(情報公開係、公益法人係)
   0852-22-6168(私立学校スタッフ、県立大学スタッフ)
   0852-22-6239(竹島対策室、竹島資料室)
soumu@pref.shimane.lg.jp