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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第10回朝鮮通信使と竹島問題


朝鮮通信使とは、朝鮮から来日する信(まこと)を通じ友好を目指す使節のことです。室町時代にも数回来日の歴史がありますが、一般的には豊臣秀吉による文禄・慶長の役(韓国では壬辰・丁酉の倭乱といいます)の後、徳川幕府が日本と朝鮮王国の友好関係再構築のため来日を呼びかけて実現した12回の朝鮮人使節団のことです。朝鮮通信使行列と行路図

第1回は慶長12(1607)年正月、467名からなる使節団が朝鮮を出発しています。一般的な朝鮮通信使の動向について松田甲氏が論文で、「朝鮮使一行は正使、副使、従事官即ち所謂三使を首とし、四百余の多人数にて国都漢城を出て、釜山港より乗船し、対馬・壱岐・藍島を経、下之関より瀬戸内海を航行し、大坂に着陸するを順路とせるが、当時はもとより汽船の便あるにあらず、只帆力を頼みに進航したる為、釜山港後或いは暴風に阻られて、或いは狂浪に遮られ、幾多の艱難辛苦を嘗めて大坂に達するに四五十日を費やすを常とした。大坂にては三四日滞在し、此に若干の人を留めて更に船にて淀川を遡り京都に滞在する。又三四日。此の如き行程なりし故、釜山を発して以来殆ど船中に生活し、土の香さえ嗅ぐの機会もなく、漸く京都を後にして陸路の旅に上り逢坂の関を越えて近江路に入りてより、初めて日本の風土を接するるの情緒を惹起した」と素描しています。

第2回の朝鮮通信使428名が来日したとき、従事官李石門が京都の伏見城で老中土井利勝に竹島問題に関する話をしています。すなわち「豊臣秀吉時代に礒竹島(鬱陵島のこと)に日本人が来て、木材を伐採して一部は秀吉に献上していた。秀吉はそれを大変喜び、その責任者に礒竹弥左衛門という名前を与えた。礒竹島には今も日本人がいる」という内容です。土井利勝は驚いて現状を把握するよう対馬藩に命じました。対馬藩の「対州編念略」(たいしゅうへんねんりゃく)という記録には、元和6年に対馬藩は島を捜索し礒竹弥左衛門、仁右衛門と名乗る2名の者を捕らえ京都へ送ったとあります。また、当時の日本の外交文書「通航一覧」にも同様の記載があります。対馬藩はこの後この島に関心を持ち、自分の藩への帰属を朝鮮国に申し入れますが実現しませんでした。

寛永20(1643)年、徳川家綱の誕生を祝して462名が来日したのが第5回目です。この一行の中に製述官朴安期なる人物がいました。製述官とは日本の文化人と接触し漢詩を交換したり、幅広い文化の質問に答えたりする役職でした。この朴安期が滞在中、毎日のように接触していたのが幕府に仕える儒家林羅山(別名道春)です。羅山は帰国する朴安期に、息子の林鵞峰(別名春斎)等が編集した「日本国記」なる書を贈呈しました。この本には日本国内の諸国の様子が記述されていますが、隠岐国について、「隠岐の海上には竹島という島があり、竹とアワビが多い。アワビは大変おいしい。その他葦鹿(あしか)という海獣がいる」としています。この時期の竹島は鬱陵島のことですから、当時の幕府の中枢は鬱陵島を隠岐国の所領と考えていたことがわかります。この時期、米子の大谷、村川家は鬱陵島や現在の竹島で当時松島と呼ばれていた島から大量のアワビを持ち帰り、江戸の将軍や幕臣に送っていますので、「大変おいしい」には実感があります。

朝鮮通信使のほうも毎回誰かが『日本見聞録』、『日本録』等の見聞記を残しています。明暦元(1655)年、徳川家綱の将軍着任を祝って488名の朝鮮通信使が来日していますが、その一員であった南龍翼が書いた『聞見別録』には、「隠岐州に北海中にあって、西は箕島(見島)と我が国の鬱陵島に近い」としています。このことから鬱陵島を朝鮮領と認識していたことがわかります。

また、宝暦14(1764)年の将軍家治の着任を祝う472名の朝鮮通信使の1人で、書記の成大中は『日本録』を著しました。成大中の幅広い視点からの日本描写は評価されますが、末尾に「附安龍福事」とする文章があり、注目されます。安龍福は元禄6年(1693)年鬱陵島で日本人と出会い、仲間の朴於屯と共に鳥取藩へ連行され、元禄9年には仲間10名と共に再来日した人物です。この2回の来日後、安龍福が語ったことは1728年に編纂された『粛宗実録』に掲載されています。成大中の『日本録』は、『粛宗実録』とほぼ同様の内容で、竹島・松島・伯耆国のこと、安龍福が語った「松島は朝鮮の于山島である」という言葉も記載されています。

『粛宗実録』がこの世に出現して37年後、成大中はなぜ自分の日本滞在記に安龍福のことを書いたのでしょうか。荒波をくぐり抜け日本へ渡った朝鮮人の先輩を追想してからか、安龍福の行動は日本と朝鮮の間に現在の「竹島問題」と呼ばれるような問題を予感していたのか。朝鮮通信使によって提供された課題です。

なお、郷土史と朝鮮通信使の関係の史実は多くありますので、下記に挙げる文献を参考にしてください。


江戸時代の朝鮮通信使往来一覧表

西暦

朝鮮

日本

正使

使命

総人員 ※()内は大阪残留

1607年

宣祖40年

慶長12年

呂祐吉

修好

467人

1617年

 

光海君9年

 

元和3年

 

呉允謙

 

大阪平定

日域統合の賀

428人(78人)

 

1624年

仁祖2年

寛永元年

鄭■(山かんむりに立)

家光の襲職

 

300人

1636年

仁祖14年

寛永13年

仁絖

泰平の賀

475人

1643年

仁祖21年

寛永20年

尹順之

家綱の誕生

462人

1655年

孝宗6年

明暦元年

趙■(王へんに行)

家綱の襲職

488人(103人)

1682年

粛宗8年

天和2年

尹趾完

綱吉の襲職

475人(112人)

1711年

粛宗37年

正徳元年

趙泰億

家宜の襲職

500人(129人)

1719年

粛宗45年

享保4年

洪致中

吉宗の襲職

475人(109人)

1748年

英祖24年

延享5(寛延元)年

洪啓禧

家重の襲職

475人(83人)

1764年

英祖40年

宝暦14(明和元)年

趙厳

家治の襲職

472人(106人)

1811年

純祖11年

文化8年

金履喬

家斉の襲職

336人

(出典:杉原隆「朝鮮通信使と雲石諸藩の負担」『山陰史談』第17号1981年)


(主な参考文献)

北島万次『壬申倭乱と秀吉・島津・李舜臣』校倉書房2002年

仲尾宏『朝鮮通信使と壬申倭乱−日朝関係史論−』明石書店2000年

辛基秀『朝鮮通信使』明石書店1999年

米谷均「近世日朝関係における戦争捕虜の送還」『歴史評論』595号1999年11月

杉原隆「朝鮮通信使と雲石諸藩の負担」『山陰史談』17号1981年

杉原隆「石見銀山代官と朝鮮通信使」『郷土石見』64号2003年12月

成大中『日本録』高麗大学所蔵


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