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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第9回元禄竹島一件と石見銀山代官


まず元禄竹島一件について簡単に説明しましょう。米子の商人の大谷、村川家が江戸幕府から許可を得て70余年、竹島(現在の鬱陵島)、松島(現在の竹島)で木材の伐採やアシカ、あわびの漁労を続けてきた後、元禄5(1692)年竹島で朝鮮人たちと遭遇しました。翌年にまた遭遇した朝鮮人のうち安竜福と朴於屯を鳥取へ連行し、幕府はこの年から対馬藩に朝鮮国と竹島問題を3年間協議させました。その結果元禄9年日本人の竹島渡海を禁止したこと、同年安竜福が仲間10人と隠岐経由で鳥取に現れたこと等の元禄時代の出来事をまとめて元禄竹島一件といいます。

 なお、天保4(1833)年以降、石見国浜田藩の八右衛門が、渡海を禁止されている竹島に渡ったことが発覚し逮捕、処刑された事件は天保竹島一件と呼ばれています。

さて、元禄竹島一件の時期、諸問題に対応したのは隠岐の支配を担当していた石見銀山代官であったことを今回の話題としたいと思います。隠岐の支配については、松江藩の最初の藩主である堀尾氏や次の京極氏時代は出雲地方と一緒にその統治下にありましたが、寛永15(1638)年、松平直政に始まるいわゆる松江松平藩の出発初期に幕府の勘定奉行の直轄となり、それを松江藩が預かり地として管理を行っていました。

 ところが、貞享5(1688)年(この年の9月元禄と改元)、幕府は松江藩に隣接する天領である石見銀山の代官の統治に切り替えました。『隠岐島誌』はこの変化を「将軍綱吉の時、幕府の財政救助策として、諸侯に密旨を伝えてその管地を収むるに及び、松平綱近も貞享四年十二月隠岐を幕府に返納せり。爾来、享保五年六月まで三十四ケ年間、幕府の直轄地として石州大森銀山領の代官これを支配せり」としています。この時期の石見銀山代官は由比長兵衛(ゆいちょうべえ)という人物でした。彼は元禄元年のうちに、隠岐から船で石見銀山代官所のある大森(現在の大田市大森町)へ迎えに来た隠岐の公文(くもん・大庄屋)の総代、犬來(いぬぐ)村の六郎右衛門に案内されて、大浦(島根県大田市の港)から出雲大社の宇竜(うりゅう)、隠岐諸島の島前の知夫里(ちぶり)島、西ノ島を経由して隠岐諸島の島後の矢尾村(やびむら)にあった郡代(在番)所に入り、松江藩との交代の手続きを済ませ各地を巡見しました。このことは「隠岐御役人御更代覚」という史料に記されています。石見銀山代官はこの時から現地の隠岐に全体を統治する郡代と、彼を補佐する代官を隠岐の島後、島前に1人ずつ配置していますが、銀山領である波根東村(大田市)の庄屋加藤三右衛門が書いた「観聴随筆」(かんちょうずいひつ)には、隠岐に派遣される役人で郡代と島後の代官は石見銀山代官が中央から連れて来た人の中から選ばれ、島前の代官は自分たちが知っている銀山領出身者から選出されるルールがあったことを記しています。松江から隠岐に行くのと違い、石見銀山領からはかなり遠距離となりますが、隠岐の大久(おおく)村の斎藤家文書にある「漕船廻文」等からは石見銀山領と隠岐の往来が盛んだったことを感じさせます。また石見銀山の記録である「石州銀山領万手鑑」(せきしゅうぎんざんりょうよろずてかがみ)には、隠岐の田畑の石高や隠岐の統治に必要な支出状況が書かれていますし、銀山領の地役人であった阿部家文書にも隠岐に関する内容の記録があります。また別の地役人宗岡家には「隠岐国写絵図」という絵図が所蔵されていました。

さて、元禄5年8月、石見銀山代官は由比長兵衛から後藤覚右衛門に変わり、隠岐の郡代も三好平左衛門、島後の代官田邊甚九郎、島前の代官中瀬弾右衛門となりました。このメンバーで隠岐を支配していた元禄6年4月、隠岐経由で竹島(鬱陵島)に渡海していた米子の町人大谷久右衛門の船が安竜福、朴於屯という朝鮮人を連行して隠岐に帰って来ました。隠岐の福浦で地元の北方村、南方村の庄屋や大年寄が日本語の話せる安竜福と会話した内容を三好平左衛門、田邊甚九郎に報告した文書が残っています。大谷家の船は米子に向かう途中島前の代官所のある別府にも立ち寄っていますので、島前の代官中瀬弾右衛門も2人の朝鮮人に面会したと想像されます。石見銀山代官所付近を描いた江戸時代の絵図の多くには、唐人橋という橋が描かれています。唐人とは朝鮮人、中国人の総称ですが、山陰地方の場合朝鮮人について用いることが多いので石見銀山に銀山に関係する朝鮮人の技術者がいたか、漂着朝鮮人の逗留場所があった可能性があります。

今や石見銀山の役人たちは、地元でも隠岐でも朝鮮人に対応する必要が生まれたわけです。享保5(1720)年当時の石見銀山代官竹田喜左衛門は幕府に申し出て、隠岐の支配を放棄し、松江藩の預かり地にしてもらっています。彼はその理由を「唐船(からふね)抑えがたきにより」と、海上に数多く出現するようになった朝鮮船との対応の難しさをあげています。

ではもう一度元禄時代に戻って元禄竹島一件のハイライトの出来事と石見銀山代官配下の隠岐にいた役人たちの活躍をお話ししましょう。元禄9(1696)年5月20日、元禄6年に連行されて来た安竜福が仲間10人と再び隠岐に姿を現しました。石見銀山代官は同じ後藤覚右衛門でしたが、隠岐郡代は中瀬弾右衛門、島後の代官は松岡弥次右衛門、島前代官は山本清右衛門に変わっていました。郡代は元禄6年には島前代官だった中瀬弾右衛門が経験をかわれたのか昇格していました。すでにお話しましたように、鳥取藩に向かう安竜福等が米を3合しか持っていないことを知ると、飢饉の続く隠岐の蓄米1斗余りを提供したり、安竜福が帰国後「隠岐島主が伯州(鳥取藩)に連絡をとってくれた」と語ったことが『粛宗実録』に出てきますが、米の提供を命じたり隠岐島主と書かれたのは中瀬弾右衛門のことと思われます。まもなく隠岐における安竜福等の行動は中瀬弾右衛門と島後の代官松岡弥次右衛門の名で石見代官所に届けられました。報告書を運んだのは島前の代官山本清右衛門でしたし、最近隠岐の海士(あま)町村上助九郎家から発見された「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」はその報告書の写しと考えられます。代官所に届けられた報告書の本書はまだ見つかっておりません。

昨年石見銀山が世界遺産に登録されて、手厚い保護がなされることが決定したことは大変うれしいことであります。ますます石見銀山の研究が深まるでしょうが、今後は石見銀山領の人たちの隠岐支配等その歴史の検討も深めて欲しいと思います。


(主な参考文献)

『隠岐島誌』島根県隠岐支庁昭和8年

『新修島根県史』史料篇2島根県昭和40年

『粛宗実録』

「観聴随筆」大田市立図書館所蔵

「石州銀山領万手鑑」島根大学所蔵

「阿部家文書」、「隠岐国写絵図」大森銀山資料館所蔵


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