杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第5回隠岐と竹島
すでにお話しましたように、米子の町人大谷九右衛門と村川市兵衛は幕府から竹島(鬱陵島)渡海の許可をもらい、隠岐経由で竹島や、しばらくして発見した松島(現在の竹島)に毎年交代で70年余りの間出かけ、木材やアシカ、あわび等を持ち帰りました。今回はその時の中継地「隠岐」のことについてお話したいと思います。
島根県美保関の外港雲津(くもず)で竹島(鬱陵島)へ渡航の準備と風待ちをした大谷、村川船は、まず隠岐諸島の内で島前(どうぜん)と呼ばれる海域である西ノ島を目指しました。この島には海の安全を司る神が鎮座する焼火神社(たくひじんじゃ)があったからです。風を頼りにする木造の帆船による竹島渡海は危険なことも多く,信仰による救済を求める気持ちは船乗り全員に共通するものがありました。また村川市兵衛船が大海を漂流した時、船員が焼火山の神に救いを求めたところ、漁火(いさりび)に導かれて入り江に着岸出来たことがあり、焼火山への信仰はますます厚くなったと、1667(寛文7)年松江藩士斎藤豊仙が隠岐を巡回しその聞をまとめて藩に提出した『隠州視聴合紀』(いんしゅうしちょうごうき・父親の斎藤豊宣が書いたという説もあります)の「知夫郡焼火山縁起」(ちぶぐんたくひさんえんぎ)に書かれています。
焼火神社に参拝をすませた人たちは再び船に乗り、今度は島後(どうご)地区の五箇(ごか・現在の隠岐の島町)にある福浦を目指しました。江戸時代の隠岐を描いた「隠岐国絵図」の多くには「此港舟懸吉、竹島へ之舟此港ニ而天気見合申候(この港、舟ががりよし、竹島への舟この港にて天気見合わせ申し候)」と、福浦で風と天気をみて出発するとしています。風待ちの期間はその時々で違うでしょうが、鳥取藩士岡嶋正義が1828(文政11)年書いた「竹島考」には、1666(寛文6)年大谷九右衛門船が米子を同年2月3日に出発し、隠岐に2月13日着いた後4月6日に竹島に向かった事例を記載しています。竹島行きの船は21人乗りで1艘か2艘でしたが、そのうち8人か9人は隠岐で雇われていました。前記の大谷船は帰国時暴風に遭い朝鮮へ漂着し対馬経由で米子に帰り、帰国者の名と所属の旦那寺を書いた古文書がありますが、隠岐の人は浄土寺を旦那寺とする太郎右衛門、小作、五郎作、五助、彦七と、万泉寺の作助、次郎左衛門、甚七、九郎助の9人で、すべて五箇地区の人です。浄土寺は現存しますが万泉寺は現在廃寺になっています。元禄時代雇われてたびたび竹島に渡った五箇の漁師に板屋(いたや)という屋号の者がおり、彼が語った体験談をのち出雲大社の神官矢田高当(やだたかまさ)が「長生竹島記」(ちょうせいたけしまき)という書に記しています。板屋という屋号は現在五箇の久見(くみ)に居住される八幡(やわた)家の本家と同じです。もし江戸時代の板屋が現在の板屋につながるなら、昭和初期に現在の竹島へ渡り当時の竹島の地図や日記を残した八幡伊三郎さんや、李承晩ライン設定後2年目に島根県の依頼を受け、久見漁協関係者11人で竹島周辺で漁をした八幡尚義さん、竹島関係の資料を整理し隠岐の島町の子供たちに竹島は日本の固有の領土であることを教えておられる八幡昭三さん等八幡一族の皆さんは、板屋を名乗る漁師の末裔の可能性もあります。この板屋は安竜福、朴於屯を日本に連行した1693(元禄6)年の大谷船にも乗っていました。また板屋を名乗る漁師や大谷船の総括船頭の黒兵衛等が、竹島丸と名付けた船で安竜福、朴於屯を福浦に連行した時、彼らが帰国の途中で松島(現在の竹島)に立ち寄ったかどうかは、朝鮮人が17世紀松島の存在を知ったか否かという重要な問題に係わります。しかし目下その事について明白にする資料は見つかっていません。この元禄6年の事件については、3月16日福浦を出発、翌17日に竹島到着、18日竹島出船、20日福浦に帰着、23日米子に向けて福浦出航、島前や出雲の長浜を経由で米子に帰ったと記す船頭黒兵衛と平兵衛の連名の口上書が残っております。
また、「長生竹島記」によると、板屋の女房等の福浦の女たちが異国人を無理やり連行した漁師たちを叱責し安竜福等を丁重に扱ってやったことや、安竜福は日本語が話せたたので現在の五箇にあった南方村の庄屋九右衛門、北方村の庄屋甚八等は彼と会話しその内容を隠岐全体を総括していた郡代の田邊甚九郎や島後の代官三好平左衛門に報告した記録も残っています。1696(元禄9)年安竜福は仲間10人と鳥取藩へ訴訟に行く途中で再び隠岐に現れました。荒れている海の中で上陸したのは大久(おおく)のかよい浦でした。大久の斎藤家文書(現在島根県立図書館に寄託されています)の中に、かよい浦の位置を示す「大久湊図」があります。大久村の庄屋與次右衛門や代官所から派遣された役人高梨杢左衛門、河嶋理大夫は彼らを丁重に扱いました。特に安竜福等の船に米が3合しかないことを知ると、隠岐はこの頃凶作の年が続いていたにもかかわらず大久村では白米4升5合を集めて提供しましたし、少し遅れて郡代からは1斗2升3合の米が届きました。まもなく安竜福等は隠岐を出発し鳥取藩へ向いました。鳥取ではまず伯耆(ほうき・現在の鳥取県西部)の赤崎灘に着き、ついで因幡(いなば・現在の鳥取県東部)の長尾鼻で鳥取藩の出迎え船に出会ったので上陸し、青谷専念寺で鳥取藩の儒家辻晩庵と筆談しましたが、来訪の趣旨が判明せず鳥取の城下の会所に移されました。その後幕府からの指令で追放が決定し、湖山池の青島へ移された後、近くの賀露(かろ)港から乗ってきた船で帰国せざるを得ませんでした。彼等は帰国の途中で再び隠岐に立ち寄った可能性があります。「長生竹島記」に隠岐の西村という港に朝鮮の船が現れ「福浦はどちらの方向か」と尋ねたとあります。数年前安竜福と朴於屯が連行された時彼らを見た人がおり、「あれは安竜福だ」と叫んだので騒ぎとなり、船が福浦に着くとさらに多くの人たちが「安竜福だ、この前親切にしてやったのでお礼に来たのだ」と涙を流して再会を喜んだとあります。
元禄6年に連行された2人は帰りは長崎、対馬経由であったことは明白ですし、元禄9年に来た時は大久以外上陸していませんので、西村、福浦の人たちが安竜福と再会したとすれば元禄9年の帰国時以外考えられないことになります。
その後隠岐と竹島、松島に関係する出来事としては、すでに日本人の竹島(鬱陵島)渡海が禁止されていた天保期に、浜田の船乗り八右衛門が隠岐の海士(あま)に来て1833(天保4)年、1834年、1835年と3回竹島に渡り、木材を持ち帰りそのことが発覚して1836(天保7)年逮捕、処刑されたことを海士の大庄屋渡部助蔵の一族と考えられる渡部円大夫なる人物が記すとともに、八右衛門から写させてもらったという竹島の図を残しています。平成18年11月竹島問題研究会の皆さんと鬱陵島調査に行った時、私は八右衛門の竹島の図を持参しましたが島の形状や方角等実に正確で驚嘆しました。八右衛門が処刑された14年後の嘉永2年隠岐の周辺に外国船が数多く現れました。隠岐を幕府から預かっていた松江藩は大砲を島に運ぶ等して警備を強めましたし、松江藩士金森建策はこの周辺の事情を藩主斉貴(なりたけ)に竹島の図とその説明書「竹島図説」で報告しました。今回詳細に検討したところ周辺の書き込み等も八右衛門の竹島の図と同じことから金森建策は八右衛門のものを利用したことがわかりました。この嘉永2年隠岐周辺に現れた外国船の中にフランスの捕鯨船リャンクール号という船があり、その乗組員は当時の松島、現在の竹島に上陸し無人島と考え、この島を「リャンクール島」と名ずけて去りました。まもなく西洋の海図に現在の竹島がリャンクール島、突き出されるように鬱陵島が松島、その先の架空の場所に竹島が描かれるようになり、明治初期の島名に混乱を生じることになりますがこのことはまたの機会にお話ししましょう。
焼火(たくひ)神社[島根県隠岐郡西ノ島町]
(主な参考文献)
- 「隠州視聴合紀」※池内敏氏の研究によると島根県立図書館所蔵本、島根大学所蔵本、村上助九郎氏所蔵本等内容を一部異にする写本が24種類見つかっているという。
- 「長生竹島記」(写本)島根県立図書館所蔵
森須和男『八右衛門とその時代−今津屋八右衛門の竹嶋一件と近世海運−』石見学ブックレット3浜田市教育委員会2002年発行※最新の研究成果や渡部円大夫が写した竹島の図の記載等から、従来呼ばれていた「会」津屋(あいずや)ではなく、「今」津屋(いまづや)が正しいとされるようになっている。
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