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いにしえからの挑戦状_第4章_正解発表!!

挑戦状タイトル

 

 

※全問正解率は過去最高の63.5%!皆さん島根の歴史文化博士ですね!

※問題・正解・一言解説の一覧はこちら(PDFファイル

 

第1問_縁結びを描いた「出雲国大社之図」

出雲は縁結びの地として知られていますが、旧暦10月の神在月に出雲大社に神様が集まって、カップルを決める様子を描いた江戸時代の錦絵「出雲国大社之図」は、次のうちどれでしょう?

第1問の画像A第1問の画像B第1問の画像C

[いずれも古代出雲歴史博物館蔵(写真は一部加工)]

Aの絵
Bの絵
Cの絵

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

Aの絵は「八俣大蛇退治之図」で、出雲神話のスサノヲによるヤマタノヲロチ退治の場面を描いたものです。Cの絵は浮世絵師として著名な歌川広重が描いた「六十余州名所図会」のうちの「出雲_大社ほとほとの図」です。江戸時代の出雲大社の周辺では、正月15日の夜に子どもたちが「ほとほと」と家々の戸を叩いてお餅やお菓子をもらう風習があり、それを描いたものです。

 

第2問_加茂岩倉銅鐸の埋め方

1996年、雲南市の加茂岩倉遺跡で39個もの銅鐸が見つかりましたが、それらの銅鐸はどのような状態で埋められていたでしょう?

A.遺体の隣に副葬
B.全てを一列に並べて埋納
C.入れ子状態にして埋納

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

銅鐸は銅鏡のように古墳への埋葬に伴って副葬されることはありません。銅鐸が埋納される状態にはある程度規則性があり、両側に薄く伸びる鰭と呼ばれる部分が上下に向くように横倒しにした状態で埋納する方法が最も多くみられます。加茂岩倉遺跡のように、大小の銅鐸を重ねる入れ子状態の埋納でも鰭を立てて埋納される例もあります。

 

第3問_大田市・天王平廃寺の巨大石

次の写真は国道9号線沿いにある大田市の天王平廃寺(てんのうびらはいじ)に残る大きな石です。この石はどのように使われたでしょう?

第3問の画像

A.塔の柱を支える
B.お金を鋳造する
C.料理をする

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

写真は「心礎」という塔の心柱の礎石です。大きな丸い窪みは心柱を受ける部分で直径が90センチもあります。中央の四角い穴は仏舎利を納めるための穴で、サビがついていたことから鉄の蓋がしてあったと考えられています。心礎の他に塔が建てられた基壇や、塔を飾った水煙や瓦も見つかっており、石見国での仏教の普及を考える上で重要な遺跡といえます。

 

第4問_『出雲国風土記』が完成した年

全国で唯一ほぼ完全な形で残る奈良時代の地誌『出雲国風土記』。その完成までには、和銅6年(713)に風土記の編さんの命令が出てから、長い時間がかかりました。では完成した年は、いつでしょう?

A.霊亀元年(715)
B.神亀3年(726)
C.天平5年(733)

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

国毎に作られた風土記も現在は5ヵ国が残るだけで、そのうち完成年が記されているのは『出雲国風土記』のみです。他の四ヵ国の風土記は『常陸国風土記』が720年頃、『播磨国風土記』が715年頃、『豊後国風土記』『肥前国風土記』が732年頃、現在伝えられている形になった推定されています。なぜ『出雲国風土記』の完成が、編さん命令後20年も経過した天平5年になったのかは分かっていません。

 

第5問_中須東原遺跡の石敷きは何のため?

日本海に注ぐ益田川河口にある益田市の中須東原遺跡では、写真のような石を敷き詰めた遺構が数多く見つかりました。では、これは何に使われたと考えられているでしょう?

第5問の画像

[益田市教育委員会写真提供]

A.船着き場
B.庭園
C.岩盤浴

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

中須東原(なかずひがしばら)遺跡では、全長40メートル・幅10メートルに及ぶものも含め、水ぎわ沿いに多数の石を敷き詰めた船着き場跡が発見されました。交易でもたらされた東南アジア産の焼き物など、珍しい品物も数多く発見されています。

 

第6問_石見「銀の山」を生んだ新技術

石見銀山では、16世紀前半に新しい銀の精錬技術が導入されたことで銀の大量生産が可能となりました。その技術とは、次のうちどれでしょう?

A.混こう法
B.灰吹法
C.銑(ずく)押し法

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

石見銀山では、鉛を触媒として銀と他の鉱物とを分離する「灰吹法」と呼ばれる精錬方法が導入されました。混こう法(水銀アマルガム法)は、水銀を用いた精錬方法で、ボリビアのポトシ銀山などで導入されました。銑(ずく)押し法は、たたら製鉄における製鉄方法の一つで、砂鉄から銑(銑鉄)を造り、それを脱炭して鉄を生産するものです。

 

第7問_松江藩をおさめた殿様たち

江戸時代の松江藩は、跡継ぎ不在のために藩主となる家が二度代わっています。では松江藩主になったことのない家は、次のうちどれでしょう?

A.北条家
B.松平家
C.堀尾家

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

最初に藩主になったのが堀尾家ですが、三代で子孫が絶えて断絶、次に入った京極氏も初代京極忠高に子孫がなく、断絶しました。京極氏の後に入ったのが松平氏で、明治維新まで続きました。なお、「北条氏」は武士でいえば鎌倉幕府の執権、小田原城を拠点とした戦国大名、河内国狭山藩藩主などとして知られています。

 

第8問_松江藩財政を救った薬用○○

江戸時代の1806(文化3)年に松江藩で栽培に成功したある農作物は、その品質の高さから高値で取引され、松江藩に多大な利益をもたらしました。藩の財政難を救ったその農作物は、次のうちどれでしょう?

A.人参
B.生姜
C.蕎麦

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

宝暦10(1760)年、六代藩主宗衍の命によって御種人参(朝鮮人参)の試作が始まりました。松江藩士小村新蔵・茂重親子による試行錯誤の末、文化3(1806)年に古志原(松江市)で栽培に成功すると、御種人参はその確かな品質により高値で取引され、松江藩に多大な利益をもたらしました。現在も、中海に浮かぶ大根島(松江市八束町)で栽培が続けられています。

 

第9問_「大島根県」の誕生

明治9(1876)年から14(1881)年まで、島根県に隣接するある県は島根県に合併されていました。この時期は「大島根県時代」とも呼ばれていますが、その合併された県は何県でしょう?

A.山口県
B.広島県
C.鳥取県

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

当時、県の統合は国の施策として全国的におこなわれましたが、統合された県の地元では盛んに分県運動がおこなわれたため、結果的に鳥取県以外にも奈良県など7県が復活を果たしました。鳥取県が島根県に統合された理由は明らかではありませんが、面積が小さいこと、山陰道で結ばれる島根県と地理的に一体性が高いこと、などが背景と推測されています。ちなみに鳥取県が分県再置された9月12日は「とっとり県民の日」に制定されています。

 

第10問_蓮華会舞で知られる島根の寺院

国の重要無形民俗文化財にも指定されている、平安時代の舞楽の伝統を今に伝える「蓮華会舞」が演じられることで有名な島根県の寺院は、次のうちどれでしょう?

第10問の画像

[蓮華会舞]

A.石見国分寺
B.隠岐国分寺
C.出雲国分寺

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

隠岐国分寺は奈良時代に全国で建立された国分寺の1つで、中世以降は真言宗寺院として続いています。戦国時代の戦乱や明治時代初期の廃仏毀釈、2007年の本堂火災など数々の苦難を乗り越え、隠岐国分寺の蓮華会舞は現在も継承されています。

 

 

第11問_出雲の青銅器の原材料は銅と鉛と…

島根県には荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡など、大量の青銅器を埋納した弥生時代の遺跡があります。弥生時代の青銅器の材料とされた主要な金属は、銅・鉛とあと一つは何でしょう?

第11問の画像

[荒神谷遺跡出土青銅器(文化庁蔵、古代出雲歴史博物館保管)]

A.金
B.銀
C.錫(すず)

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

銅は軟らかく加工しやすい性質がありますが、武器のような硬い道具を作るには適さず、色味も茶色がかり輝きが乏しいという特徴があります。銅に錫を混ぜることで硬度が上がり、色味も白銀色に輝くようになります。また融点が下がり、鋳造時の流動性が良くなって細密な模様を表現できるなど、様々な利点もありました。世界的に青銅とは銅と錫の合金を指しますが、東アジアではさらに鉛を加えて、しなやかさをそなえた青銅器が製作されました。

 

 

第12問_「嫁ヶ島」風土記では?

日本夕日百選に選ばれるなど、夕景で有名な宍道湖の嫁ヶ島は、奈良時代につくられた『出雲国風土記』では別の名前で登場します。それは何島でしょう?

第12問の画像

[宍道湖・嫁ヶ島の夕景(写真集「出雲国風土記紀行」より)]

A.蚊島
B.粟島
C.蜈蚣(むかで)島

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

なぜ「蚊」なのか、理由は分かっていません。江戸時代初めの書物には「よめ島」と出てきます。B・Cも『出雲国風土記』に出てくる島で、粟島は鳥取県米子市の粟島神社のある丘陵で、「伯耆国風土記」逸文にもスクナビコナにまつわる伝承が記されています。蜈蚣島はタコが蜈蚣をくわえて島にとどまったことが島の名の由来とされ、松江市八束町の江島にあたると考えられています。

 

第13問_須恵器はどっち?

古墳時代になると、登り窯で焼く「須恵器」が作られるようになります。島根県では松江市の大井窯跡群の窯で多くの須恵器が作られ、広く流通しました。では、次の写真のうち須恵器はどちらでしょう?

第13問の画像A第13問の画像B

Aの土器
Bの土器

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

Bが須恵器で、Aは土師器で、いずれも安来市臼コクリ遺跡から出土したものです。須恵器は登り窯を使って1100度以上の還元炎(空気の流入を遮断して不完全燃焼をさせた炭素を含んだ炎)で焼成をするので灰色で固い仕上がりとなります。一方土師器は野焼きで800~900度の酸化炎(酸素の供給が十分な完全燃焼の炎)で焼成をするので赤色で軟らかい仕上がりとなります。水を通しにくい須恵器は主に貯蔵具に使われ、熱に強い土師器は煮炊具に使われるなど用途によって使い分けがされていました。

 

第14問_山持遺跡の珍しい板絵

出雲市の山持遺跡からは、奈良~平安時代に描かれたと思われる、次の図のような珍しい絵がのこる板が出土して話題となりました。この絵は何を描いたものだと考えられているでしょう?

 第14問の画像

A.龍
B.スサノヲノミコト
C.吉祥天女

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

服装や髪形などから女性とみられますが、板絵像の背後には頭光が表現されていることから吉祥天(女神)と考えられます。吉祥天信仰は8世紀に高まり、吉祥天に懺悔し、天下泰平や五穀豊穣を祈る法会が盛んに行われました。

 

第15問_益田ゆかりの画聖

次の写真は、ある画家が室町時代の益田の武士・益田兼堯(かねたか)を描いた絵です。水墨画家として知られ、国宝指定作品が6点あるこの絵の作者は誰でしょう?

第15問の画像

A.狩野松栄
B.柿本人麻呂
C.雪舟

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】[写真は益田市立雪舟の郷記念館蔵]

益田と雪舟との関わりでは、医光寺と萬福寺の庭園も雪舟作としてよく知られています。なお、Aの画家は益田兼堯の子孫元祥(もとよし)の肖像画(島根県立石見美術館所蔵)を描いています。Bは石見地域ゆかりの歌人として有名で、万葉集に多くの歌が載せられています。

 

第16問_松江城の異名

今年で国宝登録5周年を迎える松江城。「白鷺城」(姫路城)や「烏城」(岡山城)のように、松江城にも鳥の名を冠した別名があります。それは次のうちどれでしょう?

A.白鳥城
B.千鳥城
C.大鷲城

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

「千鳥城」の異名をもつ松江城天守ですが、実は明確な由来は分かっていません。しかし近年の調査によって、築城時の松江城天守には、現在は見られない「千鳥破風」が取り付けられていたことが分かってきました。また実際に、千鳥破風の痕跡も発見されています。かつて天守をかざった千鳥破風。長年謎であった「千鳥城」の由来解明に繋がる大きな手掛かりとなるかもしれません。

 

第17問_江戸時代の農薬によく使われた油

江戸時代、うんかなどの害虫から稲を守るため、田に油膜を張る「注油法」が編み出されました。それにはさまざまな油が使われましたが、江戸時代後期の天保年間以降、最も高い効果が期待できるとして松江藩ではあるものの油の使用が奨励されました。それは何でしょう?

A.鰯油
B.鯨油
C.アザラシ油

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

天保3(1832)年、松江藩では鯨組方を設置し美保関と日御碕で捕鯨事業を開始しました。鯨は一頭で食用・燃料・工芸品・肥料・薬など多大な利益をもたらすことから、捕鯨事業は地域経済の振興を意図したものであったと考えられています。また、松江藩では虫害対策として優れる鯨油の使用が奨励され、蝗害による田畑の不作などもあって利用が進みました。

 

 

第18問_旧浜田県庁の門

現在浜田城には、明治時代のはじめに設置された浜田県の県庁正門として使われていた門がのこっています。この門は、廃藩置県の際に浜田県に合併したある藩から移設された歴史的建造物です。ではその藩は、次のうちのどれでしょう?

A.松江藩
B.萩藩
C.津和野藩

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

廃藩置県により、明治4(1871)年に津和野藩御殿(津和野藩庁)の主要な建物が浜田へ移されました。浜田城跡にある護国神社裏の門は、このとき津和野藩庁の門を浜田県庁の門として現在の浜田郵便局の地に移したものです。島根県となったのち、昭和42(1967)年に浜田市に譲渡されて現在の地に移築されました。

 

第19問_小泉八雲が昇殿した神社

1890(明治23)年9月14日、島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任していた小泉八雲が参詣し、ヨーロッパ人として初めて昇殿した神社は、次のうちどれでしょう?

A.美保神社
B.神魂神社
C.出雲大社

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

1890(明治23)年8月30日に松江に到着した小泉八雲は、2週間後には出雲大社に参詣し、昇殿を許されています。その時の体験記が、『知られぬ日本の面影』に収録されている「杵築ー日本最古の神社ー」です。八雲は、翌年夏には妻セツとともに出雲大社・日御碕に遊び、1896(明治29)年6月にも神戸から家族とともに松江、美保関、出雲大社を訪ねています。

 

第20問_浅草・木馬館で人気を博した島根の芸能

演芸の盛んな東京・浅草で大正時代から昭和時代まで人気を博し、「木馬館」という常設の演芸場もあった島根県の芸能は何でしょう?

A.獅子舞
B.安来節
C.石見神楽

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

歌や踊り、銭太鼓などを女性が披露する安来節が、大正時代から浅草の演芸場で人気を集めました。木馬館は安来節の常設館として、昭和13(1938)年から52(1977)年まで上演を続けた演芸場です。

 

第21問_山陰道のトンネルの上の古墳

次の写真は安来市久白町付近の山陰自動車道のトンネルの上に保存された古墳です。弥生時代の四隅突出型墳丘墓の特徴を色濃く残した、古墳時代前期に作られたこの古墳の名前は、次のうちどれでしょう?

第21問の画像

A.塩津山1号墳
B.上塩冶築山古墳
C.岡田山1号墳

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

塩津山1号墳は標高35メートルの丘陵の上に造られた南北25メートル、東西20メートルの方墳です。墳丘の裾が反り返り隅が突出している点や、墳丘に葺かれた石がテラス状に置かれている点は、弥生時代の墳墓である四隅突出型墳丘墓の名残と考えられています。一方で墓坑に竪穴式石槨を用いるなど弥生時代の出雲の墳墓には見られない点もあります。弥生時代の伝統を残す塩津山1号墳は古墳時代の出雲の状況を考える上で貴重な遺跡といえます。

 

第22問_国府の給食センターを示す墨書土器

古代の遺跡から出土する土器には、墨で文字が書かれているものがあります。これは「墨書土器」と呼ばれ、松江市の出雲国府跡では200点以上も見つかっています。次の写真もその1つで、食事を調理する場所を意味する文字と考えられていますが、何と書かれているでしょう?

第22問の画像

A.厠(かわや)
B.厨(くりや)
C.廛(いちくら)

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

「厨」と書かれたこの土器は、国厨(くにのくりや)で管理されていた食器と考えられます。国厨とは現代で言えば給食センターのような施設で、出雲国府で働く人たちの食事や饗宴での料理などを供給していました。出雲国府跡では「厨」の他に、「三太三」「意宇」など当時の郡名や郷名が書かれたものや、「介」や「目」など官職名が記載されたものなど色々な墨書土器が出土しています。ちなみに出雲国府跡では「厨」と書かれた土器は11点も出土しています。

 

第23問_「出雲国正税返却帳」にも登場する陰陽師

東京国立博物館には、平安時代の出雲国に関する財政帳簿「出雲国正税返却帳」が伝わっており、国宝に指定されています。そこには、出雲国が給料を負担することになっていた、陰陽師として有名なある官人の名前が記されています。それは次のうち誰でしょう?

A.菅原道真
B.紀貫之
C.安倍晴明

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

平安時代、四位・五位の官人の給与は地方財源から支出されることになっており、「出雲国正税返却帳」には四位であった安倍晴明の名がみえています。陰陽師として数々の伝説が知られる晴明ですが、一官人としての姿が垣間見える点で貴重な史料です。菅原道真は右大臣にまで昇った文人貴族で、学問の神様としても著名です。紀貫之は『古今和歌集』の編者でもある歌人で、仮名文学として名高い『土左日記』を記しました。

 

第24問_比叡山と結びつく出雲の古刹

出雲における修験の聖地とも呼ばれるある寺院は、鎌倉時代になると、出雲の特産品である筵(むしろ)を年貢として比叡山の寺に納めるなど、天台宗寺院として比叡山と強いつながりを持つようになります。その寺院は、次のうちどれでしょう?

第24問の画像

A.峯寺
B.雲樹寺
C.鰐淵寺

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

鰐淵寺は中世に比叡山延暦寺の末寺となりますが、鎌倉時代の古文書によれば、鰐淵寺は年貢として筵を延暦寺の塔頭である無動寺に納めており、これが仏事法会などで使用されたと考えられています。峯寺は三刀屋の真言宗寺院でこちらも修験道の道場でした。雲樹寺は安来の禅宗寺院で、開山は後醍醐天皇と所縁の深い弧峯覚明という禅僧です。

 

第25問_隠岐・高田神社に奉納された逸品

室町時代、神様のお告げをきっかけに京都の公家・武士や地元の武士らがよんだあるものを記した巻物が、高田神社(隠岐の島町)に奉納されました。その装丁や書跡は非常に美しく、現在県指定文化財となっています。では、その公家や武士がよんだものとは何でしょう?

A.俳句
B.和歌
C.漢詩

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

高田明神のお告げを受けて、京都金蓮寺の僧浄阿が広く呼びかけて和歌百首をまとめたものが、高田明神百首和歌として隠岐の島町高田神社へ納められています。

 

第26問_天正3年の山陰を記した上京日記

天正3年(1575)、京都にのぼった九州のある戦国大名は、山陰各地を経由して帰国した行程を日記に記しています。戦国時代の山陰の様子を記した貴重な日記を残したこの戦国大名は、次のうち誰でしょう?

A.堀尾吉晴
B.島津家久
C.大久保長安

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・B】

『中務大輔家久公御上洛日記』という記録には、島津家久が平田や大田、温泉津などを経て浜田に宿泊し、この地で鹿児島の人々と出会ったことが記されています。堀尾吉晴は松江城を築城した松江藩の初代藩主で、大久保長安は江戸時代に石見銀山の奉行として活躍した人物です。

 

第27問_出雲市にもあるたたら製鉄遺跡

次の写真は、お城の石垣のようにみえますが、出雲市にある田儀○○家たたら製鉄遺跡(宮本鍛冶山内遺跡)の遺構(経営者の本宅裏の石垣)です。このたたら製鉄を経営した家は、次のうちはどれでしょう?

第27問の画像

[出雲市_宮本鍛冶山内遺跡]

A.櫻井家
B.田部家
C.絲原家

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」は宮本鍛冶山内遺跡、朝日たたら跡、聖谷たたら跡、越堂たたら跡から構成される近世たたら製鉄関連の遺跡です。田儀櫻井家は、奥出雲町の可部屋櫻井家の分家で、江戸時代から明治時代まで出雲西部地域を中心に活躍した鉄師(たたら製鉄の経営者)です。松江藩の庇護のもとに田儀港を利用してたたら製鉄を神門郡の大工業として発展させました。また、製鉄業だけでなく開墾事業や道路の開削にも尽力しました。

 

第28問_石見が生んだ近代囲碁の祖

江戸時代の石見出身の囲碁棋士で、当時圧倒的強さを誇り、のちに「棋聖」や「碁聖」と称された人物は、次のうち誰でしょう?

A.本因坊道策
B.安井算知(さんち)
C.中村道碩(どうせき)

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

本因坊道策は1645(正保2)年、石見国馬路(現:大田市仁摩町)に生まれ、家元四家の一つ本因坊家へ13歳の頃に入門ののち1677(延宝5)年に四世道策を継ぎました。家元四家は本因坊家のほか安井家・井上家・林家があり、安井算知は安井家2世、中村道碩は井上家を興した井上玄覚因碩の師(井上家1世)として活躍した江戸時代前期の棋士です。

 

第29問_北前船寄港地として栄えた浜田市の良港

浜田市のある港は、江戸時代に北前船の西回り航路の風待ち港として栄え、その湾内の穏やかさから「姥ヶ懐(うばがふところ)」とも呼ばれていました。その港は、次のうちどれでしょう?

第29問の画像

A.外ノ浦
B.鷺浦
C.温泉津

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・A】

北前船の寄港地として知られる外ノ浦は、日本遺産「荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の1つに認定されており、江戸時代に描かれた絵図などから当時のにぎわいをうかがい知ることができます。出雲の鷺浦、石見東部の温泉津も、同じく北前船の風待ち港でした。

 

第30問_島根の人形芝居の特徴

島根県ではかつて4ヶ所で人形芝居が行われていましたが、このうち現存する益田市の人形芝居で用いられる人形はどのような仕掛けで動くでしょう?

A.中に人間が入る
B.指で操作する
C.糸で操る

 

 

 

 

 

【正解は…

 ・・・C】

「益田の糸操り人形」は、東京・浅草で行われていた糸操り人形芝居が明治20(1887)年頃に益田に伝わったことがその起源とされています。島根県内では他に松江市鹿島町や出雲市大社町でも糸操り人形があり、安来市には三人遣いの人形芝居がありました。近年、出雲市大社町の糸操りは復活されています。

 

 

 

 

 

 

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