島根を創った人たち
私たちが暮らす島根は、先人たちの絶え間ない努力の積み重ねの上に成り立っている。
そうした歴史の層から、私たちは今日の社会を生き抜き、未来を切り開く知恵を学ぶことができる。
苦難を乗り越え、島根の礎(いしずえ)を創ってきた偉人たちの物語をつづる。
小村茂重(おむらもじゅう)薬用ニンジンの栽培に成功し、松江藩救う
中海に浮かぶ松江市八束町の大根島は長野県上田市、福島県会津美里町と並ぶ薬用ニンジンの日本三大産地に挙げられる。
大根島で栽培される薬用ニンジンは「雲州ニンジン」と呼ばれ、優れた品質で国内外で人気を集めた。
江戸時代、薬用ニンジンの栽培法を下野国(現在の栃木県)から持ち帰り、雲州ニンジンの礎(いしずえ)を築いたのが松江藩士・小村茂重だった。
薬用ニンジンで財政立て直しへ
加工途中の雲州ニンジン
江戸時代、第6代藩主・松平宗衍(まつだいらむねのぶ)のころの松江藩は、相次ぐ風水害や凶作で財政が窮迫。
江戸では「松江藩は滅亡する」などと、うわさされるほど藩財政は行き詰まっていた。
財政再建には新たな特産品の開発が不可欠だった。
そこで藩が目をつけたのが、薬用ニンジンだった。
朝鮮半島や中国大陸が原産の薬用ニンジンは、古くから滋養強壮薬として珍重され、高値で取り引きされていた。
藩は薬用ニンジンの栽培を藩士の小村新蔵(おむらしんぞう)に命じ、宝暦10年(1760年)に江戸の藩邸敷地内で栽培を開始。
その後、新蔵は松江に戻り安永2年(1773年)には東津田村(現在の松江市東津田)で栽培を始めた。
しかし、20年以上にわたる栽培でも成果を挙げられないまま、新蔵は寛政11年(1799年)に死去した。
父の遺志受け継ぐ
新蔵の死後、栽培を受け継いだのが新蔵の子・茂重だった。
茂重は享和3年(1803年)に藩の命を受け、栽培を始めたが父と同じく失敗続きだった。
茂重は「父が始めた薬用ニンジン栽培をやめるわけにはいかない」と自らを奮い立たせて栽培に没頭した。
日光で栽培法を修業
幕府は8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が殖産興業策として、下野国の日光に直轄の薬用ニンジン畑を設けて、
裁培に成功していたが、苦労して得た栽培法を幕府は厳しく管理し、門外不出としていた。
何としても栽培を成功させたい茂重は、日光で栽培法を学ぼうと計画。日光では藩に迷惑がかからないよう藩士の身分を隠し、
寺で下働きをしながら薬用ニンジンの耕作や肥料の仕方、収穫したニンジンの加工について熱心に学んだ。
松江で栽培に成功
わらぶきの屋根で覆われた雲州ニンジンの畑
栽培法と加工法を身につけた茂重は、松江に帰郷すると古志原村(現在の松江市古志原)に畑をつくり、栽培を始めた。
薬用ニンジンは植え付けから収穫まで6年かかる。
収穫まで収入がないため、茂重は家財を売り払ったり、借金をしたりしてしのいだ。
日光で身につけた栽培法のおかげで栽培は成功し、順調に領内で拡大していった。
松江近郊のほか、大原郡や三瓶山山麓、大根島まで広がった。
藩は事業の拡大に伴い、雲州ニンジンの集荷から加工、販売まで手がける役所「人参方役所」を、
古志原村から水運に便利な松江市寺町の天神川沿いに移築し、増産に力を入れた。
現在、人参方役所は屋根の一部だけが現存する。
また、茂重が日光での修業中に信仰した猿田彦(さるたひこ)をまつる幸神社が、人参方の鎮守社として建っている。
茂重は、天保4年(1833年)に死去。墓は松江市寺町の妙興寺に建っている。
雲州ニンジンを再興へ
屋根の一部が残っている人参方役所跡
人参方役所を再現した「牡丹(ぼたん)と雲州人蔘(にんじん)の里」
高品質な雲州ニンジンは、国内はもとより、長崎を経て清国(現在の中国)にも輸出された。
雲州ニンジンがもたらした巨額の利益で、破綻寸前だった松江藩の財政は潤った。
藩の財政規模の4倍もあった多額の借金は全て返済。幕末に、最新鋭の英国製鉄船「第一八雲丸」と米国製木造船「第二八雲丸」を購入する資金の原動力になった。
明治以降、雲州ニンジンは、栽培に適した火山灰土の土壌が広がる大根島が主産地となり、島の基幹産業に成長。
しかし、近年は大量生産、安価供給が可能な中国産の薬用ニンジンに押され、生産者や作付面積は減少している。
雲州ニンジンを再興しようと、日本庭園「由志園」は平成21年に、農業生産法人をつくり雲州ニンジンの栽培に着手した。
さらに昨年10月31日には、人参方役所の移築200年を記念して、庭園前に人参方役所を再現した。
茂重が情熱を傾けた雲州ニンジンの灯は受け継がれている。
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