実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第84回
韓国の二つの竹島問題回顧の問題点
2026年6月、韓国の『領土海洋研究』(第31巻)と『独島研究』(第40号)はそれぞれ竹島問題を総括した論稿を掲載した。「東北アジア歴史財団」の『領土海洋研究』には丁永美氏の「回顧と展望-独島研究を顧みて」が載せられ、嶺南大学校独島研究所の『独島研究』には金柄烈氏が「独島に対する研究成果と今後の方向」を寄稿していた。
竹島研究の総括は、すでに第5期の島根県竹島問題研究会の『中間報告書』(2023年)と『最終報告書』(2025年)でも「竹島問題の総括」として行ったが、丁永美氏と金柄烈氏の論稿はそれ等には言及せず、次元の異なるものだった。「回顧と展望」と「研究成果と今後の方向」は、竹島を不法占拠する韓国側の正当化が目的だったからだろう。
そのため日本の外務省が2008年2月、第一期島根県竹島問題研究会の「最終報告書」を基に小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』を刊行し、韓国の「東北アジア歴史財団」がそれに抗して2012年4月、「日本人が知らない独島10の真実」で反論した事実と、それを反駁した拙稿「韓国が知らない10の独島の虚偽」の内容には触れていない。
2014年3月、島根県竹島問題研究会が『竹島問題100問100答』を出版すると、韓国の慶尚北道独島史料研究会は2014年6月に『竹島問題100問100答批判1』を刊行して反論したが、島根県竹島問題研究会がそれに反駁した顛末も述べていない。
金柄烈氏は『竹島問題100問100答批判1』の当事者だった。だがその本人が『竹島問題100問100答批判1』に触れないのは、そこには不都合な事実があったからだろう。当初、韓国のマスコミは『竹島問題100問100答批判1』の完成を報じ、慶尚北道庁のサイトに載せられたが、今では完全に抹消されているからだ(注1)。
丁永美氏の論稿はその金柄烈氏等が2009年12月、韓国海洋水産開発院に報告した「独島研究60年評価と今後の研究方案」を参照したが、そこでも金柄烈氏は1996年から98年にかけての私との論争の内容には触れていない(注2)。その論争で明らかになったのは、これまで竹島を韓国領とする際の根拠にされてきた『東国文献備考』の分註が改竄されていた事実だった。これは于山島を独島(竹島)とし、独島(竹島)を朝鮮領とすることができなくなったということだ。その拙稿の「改竄説」は、外務省の小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』のポイント2「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません」の(3)に採用されている(注3)。
金柄烈氏の「独島に対する研究成果と今後の方向」では不都合な事実には触れず、文献批判を怠った李盛煥氏の研究に依拠して竹島の不法占拠の正当化を謀っていた。今回の実事求是では、主にその李盛煥氏の竹島研究の問題点を明らかにした。
1.「独島に対する研究成果と今後の方向」に使われた李盛煥氏の論理
金柄烈氏はその「独島に対する研究成果と今後の方向」の中で、李盛煥氏の論理を引用して次のように述べている。
1905年の時点で、欝陵島争界合意や太政官指令が作動していたという事実は無主地先占を根拠とする日本の独島編入が成立しないということだ。(335頁)
この「1905年の時点」とは、1905年1月28日の閣議決定により「無主の地」の竹島を日本領に編入したことを指している。金柄烈氏は李盛煥氏の研究を使い、「無主地先占を根拠とする日本の独島編入は成立しない」と言いたいのだろう。その論拠は「欝陵島争界合意や太政官指令が作動していた」とする李盛煥氏の歴史認識にあった。
だが「欝陵島争界」は、李盛煥氏が主張する「欝陵島争界合意という一種の国境条約」ではなく、独島を韓国領とする「確立した朝鮮の法的権原」もなかった。この「欝陵島争界」については、李盛煥氏が李孟休の『春官志』(巻八)に収録された「欝陵島争界」を読んでいれば、「一種の国境条約」と曲解するはずもなかった。
1696年1月28日、江戸幕府は竹島(欝陵島)への渡海を禁じ、朝鮮政府も『新増東国輿地勝覧』に依拠して欝陵島を朝鮮領としていた。「欝陵島争界」は、欝陵島の帰属を巡る争いである。竹島(独島)をその欝陵島の属島とするのは文献の恣意的解釈である。
その事実は9月22日から11月29日まで、ソウルの「独島体験館」で開催されている特別企画展で確認できる。特別企画展には1694年に官命で欝陵島を踏査し、復命した張漢相の「欝陵島図」の写本(注4)が展示されているからだ。
張漢相の復命書に「東、海中を望めば一島あり。はるか辰(東南東)の方にあり。而してその大きさ未だ蔚島の三分の一に満たずして、三百餘里に過ぎず」とあることを根拠に、独島を韓国領として管轄した証拠にされてきた(注5)。
だが今回初めて公開された張漢相の「欝陵島図」(写本)には、張漢相が「はるか辰(東南東)の方にあり」とした竹島(独島)が描かれておらず、1711年に欝陵島捜討使として欝陵島に赴いた朴錫昌が復命した「欝陵島図形」と地形が似ていた。これは張漢相の「欝陵島図」が、その後の「欝陵島図」の祖型になったことを意味しており、朴錫昌の「欝陵島図形」にも竹島(独島)は描かれていなかったということである。それは竹島(独島)を「はるか辰(東南東)の方にあり」とし、そこまでの距離を「三百餘里に過ぎず」とした張漢相が、別途、欝陵島の東に小島を描き、復命書では「東方五里ばかりに一小島あり」、「海長竹一面に叢生す」としたことでも明らかだ。朴錫昌は、張漢相が「海長竹が一面に叢生す」としたその「一小島」に「所謂于山島/海長竹田」と表記したが、「東方五里(約2km)ばかり」の「一小島」は、欝陵島の東約2kmの竹嶼(チクトウ)である。朴錫昌が「欝陵島図形」で「所謂于山島」とした小島は竹島(独島)ではないのである。
それに「欝陵島図」(写本)では欝陵島の疆域を「欝陵島図、周回一百五六十里許/自西至東六十里許/自南至北七十餘里」と明記して、欝陵島を一周一百五六十里とした。この疆域に竹島(独島)は含まれていない。竹島(独島)は、欝陵島から「三百餘里(約120km)に過ぎず」とするほど離れているからだ。これは欝陵島の疆域を「周回僅可二百餘里/自東至西八十餘里/自南至北五十餘里」とした朴錫昌の「欝陵島図形」も同じである。「周回僅可二百餘里」は欝陵島一周の距離だからである。
「欝陵島争界」を契機として1694年に張漢相の「欝陵島図」(写本)が作成され、1711年に朴錫昌の「欝陵島図形」が作図された。そのいずれにも竹島(独島)は描かれていない。この事実を無視して、竹島(独島)を欝陵島の属島とするのは為にする論理である。
それに朴錫昌の「欝陵島図形」はその後の欝陵島地図の基本となり、鄭尚驥の「東国大地図」等の欝陵島にされ、その欝陵島の東には于山島と表記された小島が描かれている。それは『海東地図』、『輿地図』、『地乗』等の地図帖には朴錫昌の「欝陵島図形」が収録されている事実で確認ができる。地図帖には朝鮮八道の分図が収められ、その中には朴錫昌の「欝陵島図形」に由来する欝陵島図が収録されている。『東国大地図』、『東国地図』、『東国全図』、『我国総図』等は、それら分図を繋ぎ合わせて作図した朝鮮全図である。
張漢相の「欝陵島図」と朴錫昌の「欝陵島図形」で確立した欝陵島図は、1882年の欝陵島検察使李奎遠の「欝陵島外図」にも影響を与えた。その「欝陵島外図」には欝陵島の属島としての島項と竹島(朴錫昌が「所謂于山島」とした竹嶼)の二島が描かれている。李奎遠も欝陵島を周回「仮量為一百四五十里」とし、「西自小黄土邱尾、由中心羅里洞、東至苧浦、仮量為六十里。北自倭船艙、由中心羅里洞、南至桶邱尾、仮量為五十里也」としたが、この表記は張漢相の「欝陵島図」と朴錫昌の「欝陵島図形」で確立した欝陵島の疆域の範囲を示していた。竹島(独島)は朝鮮領として認識されていなかったのである。
それを李盛煥氏は「欝陵島争界合意や太政官指令が作動していた」とし、「無主地先占を根拠とする日本の独島編入が成立しない」としたが、竹島(独島)は最初から欝陵島の疆域には含まれず、朝鮮領ではなかったのである。
その事実は、1996年から98年にかけての金柄烈氏との論争で明らかにしたが、金柄烈氏は「独島に対する研究成果と今後の方向」と題しながら、拙稿を採用した外務省の小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』と島根県竹島問題研究会編『竹島問題100問100答』の不都合な事実には言及していない。
李盛煥氏は、「無主地先占を根拠とする日本の独島編入が成立しない」とするなら、1905年の直近の時点で竹島(独島)が朝鮮領だった事実を論証しておかねばならなかった。それは「欝陵島争界合意や太政官指令」を論難しても、それで竹島(独島)が韓国領だった証拠にはならないからだ。そこで次に論点となるのが1900年10月25日、欝陵島を欝島郡に昇格させた『勅令第41号』で管轄区域にされた「欝陵全島と竹島石島」の中の石島である。
2.「勅命第41号」の石島
だが結論から言えば、欝島郡の管轄区域に竹島(独島)は含まれていなかった。それは張漢相の「欝陵島図」と朴錫昌の「欝陵島図形」以来、竹島(独島)は欝陵島の属島にされておらず、欝陵島検察使李奎遠が1882年に復命した「欝陵島外図」と李奎遠の『欝陵島検察日記』等でもその地理的認識を踏襲していたからである。
李奎遠の「欝陵島外図」では、新たに韓国語で「牛の項」という意味の小島が漢字を音借して「島項」として描かれ、朴錫昌が「所謂于山島」とした欝陵島の東2km程の「小島」は竹島(竹嶼)と表記されたが、それは竹島(独島)ではなかった。李奎遠は「欝陵島外図」とは別に欝陵島内部を写した「欝陵島内図」を作図させたが、いずれにも竹島(独島)は描かれていない。それは聖人峰に登った李奎遠が「四望、海中郷無一點島嶼之見形矣」(『欝陵島検察日記』)とし、「清明之日登高遠眺則千里可●而更無一拳石一撮土」(『啓本草』)としたように、竹島(独島)を目撃していなかったからだ。(●は穴かんむりの下に身へんに呂。窮の異体字。 )
それに李奎遠には欝陵島に対する地理的知見があった。高宗19年(1882年)4月7日、高宗が欝陵島に赴く李奎遠を召見し、「松竹島芋山島、在於鬱陵島之傍。而其相距遠近如何」と下問した際、李奎遠は「芋山島即鬱陵島而芋山古之国都名也。松竹島即一小島而與鬱陵島相距為三数十里」と答えていたからだ。李奎遠は、高宗が問う松竹島は、鬱陵島から三数十里(2km弱)の距離にある小島としていた。
その李奎遠は、高宗に「必以図形與別単、詳細録達也」と命じられ、提出したのが「欝陵島外図」と「欝陵島内図」、それに復命書(『啓本草』)である。李奎遠はその復命書で「松竹于山島等、僑寓諸人、皆以傍近小島當之」と報告し、「欝陵島外図」にはそれを島項と竹島の二島として描いていた。
この李奎遠の「欝陵島外図」は19世紀末、日本と朝鮮共通の欝陵島地図になっていた。1883年の檜垣直枝による『復命書』所収の「地図」と1900年6月、赤塚正助が報告した『欝陵島報告書』所収の欝陵島地図がそれである。いずれにも欝陵島の東側には李奎遠の「欝陵島外図」に由来する島項と竹島(竹嶼)が描かれているからだ。
それも赤塚正助の欝陵島地図は、「勅令第41号」が公布される契機となった日韓の欝陵島合同調査の際の欝陵島地図だった。それに赤塚正助とともに欝陵島に渡った韓国側の内部視察官欝島視察委員の禹用鼎も、欝陵島の疆域を「概全島長可為七十里、廣可為四十里、周廻亦可為一百四五十里」(『鬱島記』)とし、欝陵島を一島と認識していた。これは赤塚正助も同様で、欝陵島の広さを「東西凡六里強、南北凡四里強」(注6)として、李奎遠由来の島項には「島牧」(ソンモク)と表記していた。この事実は、禹用鼎と赤塚正助には竹島(独島)を欝陵島の属島とする認識がなかったことを示している。
だが竹島(独島)を石島とするのは1906年4月29日、江原道観察使署理の春川郡守李明来が中央政府に提出した「報告書号外」に「本郡所属独島」とあったからだ。1906年4月4日、島根県の一行が日本領となった竹島の視察途中、天候不良で欝陵島に避難した県側から「竹島が日本領になった」と告げられた欝島郡守の沈興澤が、「外洋百餘里の本郡所属独島」と報告したからだった。
しかしその欝島郡の管轄区域が「欝陵全島と竹島石島」となったのは1900年10月25日、それも欝島郡の管轄区域は光武4年(1900年)10月22日、議政府賛成内部大臣の李乾夏が提出した「請議書」では「該島地方が縦可八十里で横為五十里」とされていた。この「請議書」に示された欝陵島の疆域は、張漢相や朴錫昌以来、欝陵島を一島とする伝統的な表記である。その欝陵島の疆域に、「外洋百餘里」の独島を加えることはできない。
その事実は、1906年7月13日付の『皇城新聞』(「欝島郡の配置顛末」)で確認ができる。大韓帝国の「内部」(内務行政を管掌した官庁)は「該郡所管の島は竹島石島で東西が六十里で南の北が四十里、合二百餘里」としていたからだ。
それに欝島郡の管轄区域(「欝陵全島と竹島石島」)の内の竹島は、朴錫昌が「所謂于山島」とし、李奎遠が「欝陵島外図」で竹島とした竹嶼である。すると二つある属島のもう一つは島項ということになるのである。
そのヒントは赤塚正助の「欝陵島地図」では島項を島牧と表記してソンモクと読み、『勅令第41号』の公布後には鼠項島と表記されていた事実にある。
1909年に水路部が刊行した海図306号「竹邊灣至水源端」所収の「鬱陵島(松島)」と韓国農商工部水産局編刊の『韓国水産誌』第二輯(1910年)の本文では鼠項島と表記され、海図306号ではその読み方を英字で「Somoku Somu」としている。
その書き換えは「欝陵全島と竹島石島」の石島が漢語であることに関係している。李奎遠が「形如臥牛」と形容した島項は漢字を音借して表記した韓国語だったが、『勅令第41号』以後は鼠項島とされ、その読み方は島項(ソンモク)から鼠項(ソモク)に変えられていた。島項と鼠項は漢字を音借した韓国語の「牛の項」だが、石島は漢語である。
その韓国語の島項を漢語に直すには「反切」を利用する方法がある。「反切」は韻書や漢籍の注釈書で使われる漢字音の表記法で、他の漢字二字を組み合わせて一つの漢字音にすることができる。鼠項島「Somoku Somu」の場合、鼠(SO)項(MOKU)の(SO)の声母「S」と(MOKU)の韻母「OKU」を組み合わせて一音にするのである。すると声母「S」と(MOKU)の韻母「OKU」を繋ぐと「SOKU(石)」となり、そこに「Somu(島)」を結べば石島になるのである(注7)。
「反切」は漢籍を読む時代の基本的な知識だった。韓国語で表記された島項(ソンモク)が鼠項(ソモク)に変わったのは、「反切」を用いて韓語(「牛の項」)を漢語の石(ソク)とするには、島項(ソンモク)よりも鼠項(ソモク)の方が韓国語の「牛の項」(ソモク)に近いからだ。島項が唐突に鼠項となったのは、「反切」を用いて韓語の島項を漢語の石島にしたのであれば、逆にその反切に平仄を合わせて島項を鼠項としたのだろう。いずれにしても鼠項(ソモク)は、「反切」で一字にすればソク(石)となるのである。
張漢相の「鬱陵島図」以来、朝鮮では欝陵島を一島とする地理的認識が定着し、「勅令第41号」が公布される直前には李奎遠の「欝陵島外図」が日韓共通の欝陵島地図となっていた。そこには島項と竹島(竹嶼)の二島が描かれ、1900年には欝島郡の管轄区域が「欝陵全島と竹島石島」と定められた。そこに欝島郡守の沈興澤が「外洋百餘里の本郡所属独島」と注進したことで、独島は欝島郡の石島に結び付けられ、その発音が近いという理由で石島の独島説が誕生した。
だがそれは為にする主張である。それについては1906年7月13日付の『皇城新聞』の「欝島郡の配置顛末」記事で、概略次のように報じている事実でも明らかである。
統監府が大韓帝国の「内部」(内務行政を管掌した官庁)に公文書で江原道三陟郡所管の欝陵島の属島と郡庁開設の年月日を明示するよう求めていたので、「内部」はその回答書で、光武二年五月二十日に鬱陵島監を始設したが、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置し、郡庁は霧台洞(注.台霞洞の誤り)に在って、該郡所管の島は竹島石島で東西が六十里で南北が四十里、合二百餘里ということだそうだ。
統監府からの問い合わせに、大韓帝国の「内部」は、「該郡所管の島は竹島石島で東西が六十里で南北が四十里、合二百餘里」とし、「外洋百餘里」の「独島」を欝島郡には含めていなかったのである。
3.終わりに
韓国の『領土海洋研究』(第31巻)には丁永美氏の「回顧と展望-独島研究を顧みて」が載り、金柄烈氏は『独島研究』(第40号)に「独島に対する研究成果と今後の方向」を寄稿していた。金柄烈氏はその論稿で、李盛煥氏の研究に依拠して「1905年の時点で、欝陵島争界合意や太政官指令が作動していた」とし、1905年の竹島の日本領編入を「無主地先占を根拠とする日本の独島編入が成立しない」と断じた。
だが李盛煥氏は「欝陵島争界合意」と曲解し、「太政官指令」を問題とする以前に独島を韓国領とする論証ができていない。独島の歴史的権原が日韓いずれに属すのかを明確にせず、国際法を云々するのは詭弁である。独島が歴史的に韓国領でなかった事実は、金柄烈氏との1996年から1998年にかけての論争で明らかにした。
外務省の小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』と島根県竹島問題研究会の『竹島問題100問100答』ではその一端が確認できる。金柄烈氏等がその具体的内容には触れずに国際法に偏重するのは、歴史研究では独島を韓国領とする際の不都合な事実が明らかにされているからである。
【注】
注1.島根県竹島問題研究会では、第3期島根県竹島問題研究会編『第3期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』(2015年6月)「4.付録・慶尚北道独島史料研究会の「竹島問題100問100答(ワック出版)に対する批判」の客観的検証」と第4期島根県竹島問題研究会編『第4期「竹島問題に関する調査研究」中間報告書』(2019年3月)「3.慶尚北道独島資料研究会の「竹島問題100問100答批判2」-島根県竹島問題研究会第3期最終報告書付録-に対する反論」で慶尚北道独島史料研究会の『竹島問題100問100答批判1』の問題点を指摘した。
注2.金柄烈氏とは1996年から1998年にかけて『韓国論壇』誌上で、竹島問題をめぐって論争したが、金柄烈氏はその際の拙稿を『独島か竹島か』(1997年3月、タダメディア)、『独島論争』(2001年6月、タダメディア)に収載し、2001年には韓国の外交通商部の要請を受けて『独島に対する日本人たちの主張』(2001年6月、タダメディア)をまとめているが、金柄烈氏はその事実に言及していない。
注3.『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の改竄説は、外務省が2008年2月に刊行した『竹島問題を理解するための10のポイント』と2014年3月の改訂版『竹島、なぜ日本の領土なのかがハッキリわかる!竹島問題10のポイント』のポイント(2)の「韓国が古くから竹島を認識していたという主張には根拠はありません」に採用されている。
注4.韓国の独島体験館では9月22日から11月29日まで、特別展「一つの地図、二つの視線」を開催し、東北アジア歴史財団の20年にわたる研究と収集した古地図を通じて地図に込められたそれぞれ異なる視点を探る展示を行っている。今回の展示では張漢相の『鬱陵島図』が初めて公開され、1711年に作成された欝陵島捜討使の朴錫昌の『鬱陵島図形』も展示されている。
注5.今回の特別展「一つの地図、二つの視線」では張漢相の『欝陵島事蹟』を展示し、張漢相が「東、海中を望めば一島あり。はるか辰(東南東)の方にあり。而してその大きさ未だ蔚島の三分の一に満たずして、三百餘里に過ぎず」とした部分を韓国語訳し、「朝鮮政府が二つの島を持続的に管理していたことが確認できる記録である」としている。だが張漢相の『鬱陵島図』に独島(竹島)は描かれておらず、張漢相は欝陵島の疆域を「周回一百五六十里許/自西至東六十里許/自南至北七十餘里」と明記している。それを「持続的に管理していたことが確認できる記録」とするのは文献の拡大解釈である。
注6.韓国の10里は日本の1里。「東西凡六里強、南北凡四里強」は、韓国では「東西凡六十里強、南北凡四十里強」となる。
注7.欝島郡の管轄区域とされた石島が伝統的な「反切」を用いて島項を石島とした説に対して、多くの竹島研究者は沈黙している。また『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」に対しても反証ができていない。竹島(独島)の歴史的権原が日韓のいずれに属すのかを明らかにせず、国際法で竹島問題を論ずるのは為にする議論である。
(下條正男)
