実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第80回

張禎洙氏の「日本の独島侵奪120年の歴史を顧みれば」の問題点


 島根県竹島問題研究会は2025年3月、研究成果を『第5期「竹島問題の関する調査研究」最終報告書』にまとめ、公開した。報告書の刊行が竹島の島根県編入120周年と重なり、韓国の「東北アジア歴史財団」では竹島を日本領とする論説に対しての批判的研究を始めていた(注1。その中で同財団の張禎洙氏は、1996年、韓国の『韓国論壇』誌上で国防大学校の金柄烈氏と論争した際、『東国文献備考』「輿地考」の分註が改竄されていた事実を明らかにした拙稿の主張(注2に反論し、それは「改竄ではなく修正・補完」とした。

 だが張禎洙氏の「修正・補完説」は、批判のための批判だった。『東国輿地志』を引用した『東国文献備考』(「輿地考」)の分註には「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」とあるが、『東国輿地志』の原典では「一説于山欝陵本一島」としていたからだ。そこで『第5期「竹島問題の関する調査研究」最終報告書』で「竹島問題の総括」(後篇)とした拙稿では、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註が改竄された経緯とその事実を述べたのである。

 韓国側では拙稿が示した事実を「改竄説」と称し、韓国側の主張に立つ人士(注3が必死に反論するのには理由があった。1770年に編述された『東国文献備考』「輿地考」の分註は、韓国の文献や古地図にある于山島を竹島に読み替える際の唯一の拠り所で、その分註が改竄されていたとすれば、于山島を竹島とすることができなくなるからだ。

 張禎洙氏が、『第5期「竹島問題の関する調査研究」最終報告書』所収の拙稿「竹島問題の総括」(後篇)を批判し、「改竄ではなく修正・補完として見なければならない」とした理由もここにある。今回の「実事求是」は、拙稿で例示していた歴史的事実までも無視し、文献を恣意的に解釈する傾向のある張禎洙氏の歴史研究を糺すものである。

1.文献批判を怠る張禎洙氏

 張禎洙氏は『東北亜歴史フォーカス15号』所収の「日本の独島侵奪120年の歴史を顧みれば」(「1.現在進行中である日本の独島侵奪」)で、冒頭から次のように記している。

 

 欝陵島と独島は新羅の異斯夫による于山国征伐(512)以来、朝鮮半島の求心力に入ったが、1900年になって別の行政区域に編成された。この年の10月25日、大韓帝国は「勅令第41号」を通じて独島を欝島郡の附属島嶼として明示した。

 

 だが拙稿「竹島問題の総括(後篇)」では、『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」を根拠に于山国の疆域を「地方一百里」とし、『三国遺事』(「智哲老王」)の「周回二万六千七百三十歩」に依拠して、于山国は欝陵島一島とした。これは于山国には独島(竹島)が含まれておらず、分註の「欝陵于山皆于山国地」には信憑性がないということだ。それを張禎洙氏は、「欝陵島と独島は新羅の異斯夫による于山国征伐(512)以来、朝鮮半島の求心力に入った」としたが、それは拙稿で示した『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」と『三国遺事』(「智哲老王」)を読んでいないか、無視したからであろう。張禎洙氏が「欝陵島と独島は新羅の異斯夫による于山国征伐(512)以来、朝鮮半島の求心力に入った」としたのは、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に盲従して、文献批判を怠ったからである。

 それに拙稿では、『東国文献備考』(「輿地考」)の底本となった『疆界誌』の著者申景濬が李孟休の『春官志』を謄写した際、于山島と欝陵島を同島異名の島とする李孟休の注記を批判して、自身の按語に、『東国輿地志』から「一説于山欝陵本一島」を引用し、それを根拠に于山島と欝陵島を別々の二島とした事実を記している。

 その申景濬の按語が『東国文献備考』(「輿地考」)の編纂過程で修文され、分註の「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」となったのである。それにその按語が記されている場所は、『春官志』で李孟休が「于山島と欝陵島を同島異名の島」と注記した所と同じだった(注4

 これらの事実から、拙稿ではその申景濬の按語が『東国文献備考』(「輿地考」)の編纂過程で『東国輿地志』からの引用文のように修文され、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註となったとしたのである。

 だが張禎洙氏は、李孟休の『春官志』(「欝陵島争界」)を剽窃した申景濬が、その『疆界誌』(「欝陵島」)に「按ずるに、輿地志に云う、一説に于山欝陵本一島。而(しかるに)諸図誌を考えるに二島なり。一つは則ち、倭の所謂松島にして、蓋し二島は倶にこれ于山国なり」と、按語を記した事実には言及していない。それに李孟休が「于山島と欝陵島を同島異名の島」としたのに対して、申景濬がその按語で「而(しかるに)諸図誌を考えるに二島なり。一つは則ち、倭の所謂松島」とし、諸図誌を根拠に反論していた事実にも触れていなかった。張禎洙氏は、何ら根拠を示すことなく「改竄ではなく修正・補完として見なければならない」と臆断したのである。

2.『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の中の于山島

 『東国文献備考』(「輿地考」)の分註で于山島を「倭所謂松島也」とし、于山国の付属島嶼としていたのは、申景濬が按語で「輿地志に云う、一説に于山欝陵本一島。而(しかるに)諸図誌を考えるに二島なり」としたからである。

 そこで拙稿では、申景濬が于山島とした島は、1696年、安龍福が鳥取藩に密航して、鳥取藩によって追放された後、朝鮮側の取り調べに対して「松島即芋山島」と供述した芋山島(于山島)だとした。それは申景濬の『疆界誌』(「安龍福事」)で、確認ができるからだ。さらにその于山島は、安龍福が日本に密航した際に所持していた「朝鮮八道之図」(注5の子山島(于山島)であるとした。これは『東国文献備考』(「輿地考」)の分註で「于山則倭所謂松島也」とした于山島は、安龍福の供述が基になっていたということである。

 そこで拙稿では、「朝鮮八道之図」の子山島を『新増東国輿地勝覧』系統の地図に由来する于山島とし、竹島ではないとしたのである。

 だが張禎洙氏はその事実には触れず、2025年10月23日、『東北アジア歴史財団』で開催されたコロキウムでは次のように語って、拙稿の「改竄説」を批判していたのである。

 

 10月、コロキウムは、より鮮明に日本の独島「侵奪」に注目した学術イベントとして、それぞれ2つのテーマ発表を盛り込んだ2つのセッションで構成されていた。第1セッションは「欝陵島争界以後の韓日の独島認識」、第2セッションは「独島の地政学と国際法的課題」というテーマで進行した。

 第1セッションの最初の発表で、筆者は下條正男が「改竄」と評価引き下げをする『東国文献備考』の分註が作成される過程を扱った。下條の改竄説は于山島が日本人の称する松島だという『東国文献備考』の分註の内容が、まさにその根拠として活用された『東国輿地志』のそれと異なっていることを骨子とする。今年発刊された『第5期竹島問題に関する調査研究』最終報告書で、彼のこのような論調はさらに強化された。これに反して筆者は伝統時代欝陵島・独島関連の記録が時代の流れに従って更新されたことを強調し、『東国文献備考』の分註も改竄ではなく修正・補完と見なければならないと主張した。また、記録の修正・補完は「欝陵島争界」を契機に行われ、それが朝鮮の公式的な立場として位置したことを究明した。

 

 張禎洙氏は、拙稿に反論して「伝統時代欝陵島・独島関連の記録が時代の流れに従って更新されたことを強調し、『東国文献備考』の分註も改竄ではなく修正・補完と見なければならない」としたのである。張禎洙氏によると、「古代から高麗時代に、さらに朝鮮時代を経て今日に至るまで欝陵島・独島の存在に対する認識態様を段階的に理解しなければならない」からだという。ここで張禎洙氏が「欝陵島・独島の存在に対する認識態様を段階的に理解しなければ」としたのは、『東国文献備考』の分註に依拠して、「古代から高麗時代に、さらに朝鮮時代」に至る各時代の文献に記された于山島を独島とする前提で解釈しているからである。

 しかし冒頭でも述べたように、古代に関連した文献である『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」と『三国遺事』(「智哲老王」)では于山国を欝陵島一島とし、その于山国に独島はなかった。

 また『東国文献備考』(「輿地考」)の分註で「倭所謂松島也」としていた于山島は、安龍福の供述に由来する于山島で、その于山島が「倭所謂松島」でなかった事実は、申景濬がその按語で「輿地志に云う、一説に于山欝陵本一島。しかるに諸図誌を考えるに二島なり」としていた中にヒントがあった。

 それは張禎洙氏が「(1693年の)欝陵島争界以降は、于山島の実体がより明確に」なったと述べているように、欝陵島に派遣された捜討使達によって、「欝陵島地図」が作図されていたからだ。その中で、朴錫昌が1711年に作図させた『欝陵島図形』では、欝陵島の東側にある小島に「所謂于山島」と表記されていた。この朴錫昌の『欝陵島図形』がその後の「欝陵島地図」の原型となり、以来、于山島は欝陵島の属島として定着したのである。だがその于山島は独島(竹島)ではなく、欝陵島の東2キロにある「竹嶼」(注6であった。

 だが張禎洙氏は、『東国文献備考』の刊行を契機として于山島は「倭所謂松島」とされ、独島のこととされたとし、「1770年以降、朝鮮では「于山島=松島=独島」という理解が形成された」としたのである。

 張禎洙氏には、「朝鮮時代の欝陵島管理政策の変化:捜討制の試行を中心に」(注7と題した捜討使に関連した論稿があるが、そこでは捜討使朴錫昌の『欝陵島図形』には言及していない。さらに鄭尚驥の『東国大地図』(18世紀中葉)に描かれている于山島が、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来するとした拙稿をも無視した。張禎洙氏は、不都合な事実には敢えて触れないのであろう。

 申景濬が『疆界誌』(1756年)の按語で、「諸図誌を考えるに二島なり」とした当時の諸図誌には、朴錫昌の『欝陵島図形』以来、確かに欝陵島と于山島(竹嶼)の二島が描かれていた(注8。だがその于山島(竹嶼)は、張禎洙氏が唱える「于山島=松島=独島」という図式には当てはまらない。張禎洙氏が「1770年以降」とする『東国文献備考』の于山島は、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する于山島で、独島ではなかったからだ。

3.荒唐無稽な張禎洙氏の論説

 張禎洙氏の論説が歴史の事実から逸脱しているのは何故だろうか。その一端は、張禎洙氏の次の記述を読めば分かるのである。

 

 「一次的に『世宗実録』地理志で新羅の異斯夫の于山国征伐を記述したのは重要な課題だ」(中略)「朝鮮の世宗年間に至って、この事件が独島領有の歴史的権原として明示されたということだ。政府によって発行された官撰地理志に欝陵島と独島(于山島)を自国領として記録し、その権原で新羅の于山国服属を紹介したのは、この時から欝陵島・独島が我々の領土になったと認識したことを意味する。欝陵島争界以降は、于山島の実体がより明確になった。欝陵島争界とそれ以後、定期的に実施された捜討を通じて関連知識が蓄積された結果、日本人たちが松島と呼ぶ島が于山島だという認識が生じた。

 

 新羅による于山国征伐を論じた際、張禎洙氏が依拠したのは『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」ではなく、『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条だった。張禎洙氏は『世宗実録』「地理志」を根拠として、「朝鮮の世宗年間に至って、(中略)独島領有の歴史的権原として明示された」としたのである。それは『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条の分註には『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」が引用されているため、『世宗実録』「地理志」が編纂された「この時から欝陵島・独島が我々の領土になったと認識したことを意味する」としたのである。

 だが『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条の分註に『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」が引用されているのは、「欝陵島・独島が我々の領土になったと認識した」からではない。朝鮮半島では地誌の編纂が盛んで、分註には本文と関係のある記事が収載され、本文の解釈を助ける補助的役割を果たしていた。それに『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月条」では于山国を「地方一百里」とし、于山国に独島は含まれていなかった。『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県」条の分註に「智証王十三年夏六月条」が引用されていても、「この時から鬱陵島・独島が我々の領土になったと認識した」わけではないのである。

 また「捜討を通じて関連知識が蓄積された結果、日本人たちが松島と呼ぶ島が于山島だという認識が生じた」事実もなかった。1711年、捜討使の朴錫昌は、『欝陵島図形』を復命し、そこには欝陵島の東2キロほどの竹嶼に「所謂于山島」と表記された小島が描かれていた。

 この朴錫昌の『欝陵島図形』は、その後、鄭尚驥の『東国大地図』にも採用され、その系統に連なる『輿地図』、『広輿図』、『海東地図』等の地図帖に収録された「欝陵島図」は、いずれも朴錫昌の『欝陵島図形』が基になっていた(注9

 張禎洙氏は「欝陵島争界とそれ以後、定期的に実施された捜討を通じて関連知識が蓄積された結果、日本人たちが松島と呼ぶ島が于山島だという認識が生じた」としているが、その事実はないのである。それは張禎洙氏が『東国文献備考』(「輿地考」)の分註(「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」)を恣意的に解釈しただけだからだ。

 欝陵島争界以後、欝陵島には欝陵島捜討使が派遣されたが、捜討使が提出した欝陵島の地図に描かれていた于山島は竹嶼だった。

 歴史の事実と張禎洙氏の解釈の間に整合性がないのは、改竄された『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に無批判に従い、「于山則倭所謂松島也」とする先入見で文献を解釈しているからである。それに張禎洙氏は、縷々述べたように文献批判を怠って文献を恣意的に解釈していた。それでは『東国文献備考』(「輿地考」)の分註の「改竄説」も、「改竄ではなく修正・補完と見なければならないと主張」せざるを得ないのである。

4.おわりに

 韓国の「東北アジア歴史財団」は、2025年10月、島根県竹島問題研究会がまとめた『第5期「竹島問題の関する調査研究」最終報告書』に反論すべく コロキウムを開催し、欝陵島争界以後の韓日の独島認識」と独島地政学国際法的課題」という二つのテマで研究発表をおこなったという。そこには『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は改竄されているとした拙稿に対して、「改竄ではなく修正・補完と見なければならないと主張」した論稿があった。だがそれは改竄された『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に依拠して拙稿を論難しただけだった。そこで「実事求是」では、しばらくの間、文献批判を忘れた韓国側の独島研究の問題点を指摘することにした。

 

 

【注】

注1.張禎洙氏は、2025年10月23日、『東北アジア歴史財団』が開催したコロキウムを機に執筆した『日本の独島侵奪120年の歴史を顧みれば』(109頁)で、次のように語っている。

「独島研究所は今年の2月、8月、10月に開催された学術会議・コロキウムを通じ、日本の歪曲された主張を批判した。特に8月の学術会議と10月のコロキウムでは歴史学、政治学、国際法など諸分野でより深い論議を展開した。8月の学術会議では、光復80周年を記念して主権、人権、領土を論じ、今回のコロキウムでは1905年の島根県の違法な独島編入以来、現在まで持続している日本の独島侵奪の歴史を集中的に検討した」

注2.張禎洙氏が批判の対象にしたのは『第5期「竹島問題の関する調査研究」最終報告書』所収の「竹島問題の総括」(後篇)である。だその前篇は『第5期「竹島問題の関する調査研究」中間報告書』(令和5年12月)で「竹島問題の総括」として公開した。なお、拙稿による「改竄説」は「竹島が韓国領という根拠が歪曲されていた」(『韓国論壇』1996年5月号所収)、「根拠を置いて実証せよ」(『韓国論壇』1996年8月号所収)、「竹島問題の問題点」(『韓国論壇』1998年8月号所収)で明らかにした。金柄烈氏はその拙稿を『独島か竹島か』(1997年、ダダメディア刊)と『独島論争』(2001年、ダダメディア刊)に転載。

注3.柳美林「韓国文献の欝陵・于山記述に関する考察」(『東洋政治思想史』8巻1号、韓国・東洋政治思想史学会、2009年3月)、なお同論稿は『我が史料の中の独島と欝陵島』(知識産業社、2013年11月)に「‘欝陵・于山,記述と‘申景濬改竄,説の虚構」として再録されている。『東国輿地志』からの引用文が原典の原本と異なり、書き換えられていれば、それは「改竄ではなく修正・補完」とは言わずに、改竄というのである。

注4.李孟休が『春官志』で注記した箇所には、次のようにあった。

「この島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては皆音号転訛して、然るなり」

注5.「朝鮮八道之図」について、『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』では、隠岐諸島に着岸した安龍福が「朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持」していたと記録している。 安龍福の密航事件以前、朝鮮では『新増東国輿地勝覧』(「八道総図」)に因む「東覧図」が流布していた。その中で、于山島が描かれているのは「江原道」である。だが「朝鮮八道之図」に描かれていた于山島が「倭の所謂松島」でなかった事実は、『第5期「竹島問題の関する調査研究」中間報告書』(令和5年12月)所収の「竹島問題の総括」(「2.安龍福の供述の問題点」)でも述べた。

注6.朴錫昌の『欝陵島図形』(1711年)では、鬱陵島の東側の小島に「所謂于山島」とし、「海長竹田」と表記し、1694年、欝陵島を捜討した張漢相が『欝陵島事蹟』の中で「東方五里許有一小島。不甚高大而海長竹叢生」とした小島である。その「所謂于山島」と記された小島が独島でないことは、張漢相自身、「東の海中を望めば一島あり。杳(遥か)辰(東南東)の方にあり。その大きさ欝陵島の三分の一に満たずして三百余里を過ぎず(「東望海中有一島杳在辰方而其大未満蔚島三分之一不過三百余里」)として、欝陵島の辰(東南東)の方位にある独島を目撃しているからだ。

注7.『領土海洋研究26』(東北アジア歴史財団編)所収、「朝鮮時代の欝陵島管理政策の変化:捜討制の試行を中心に」

注8.朴錫昌の『欝陵島図形』系統の「欝陵島図」には、欝陵島と「所謂于山島」と表記された竹嶼と五つの小島、それに朴錫昌が設置した「刻石立標」、「刻板立標」が描かれている。また「欝陵島周回二百餘里東西八十餘里南北五十餘里」とした付記があれば、それは『欝陵島図形』に由来する欝陵島図であることの証左である。だが張禎洙氏をはじめ韓国側の竹島研究では、朴錫昌の『欝陵島図形』を無視する傾向がある。『東国文献備考』「輿地考」の分註の「改竄説」と並んで、朴錫昌の『欝陵島図形』は、竹島を韓国領とする人士にとつて、不都合な事実だからであろう。

注9.鄭尚驥の「東国大地図」には欝陵島と于山島が描かれている。その鄭尚驥の「東国大地図」系統の地図帖である『輿地図』、『広輿図』、『海東地図』、『地乗』、『八道輿地図』等には「欝陵島図」が収載されているが、それらは(注8)でも記したように、朴錫昌の『欝陵島図形』に特徴的な「所謂于山島」と表記された竹嶼と五つの小島、それに朴錫昌が設置した「刻石立標」、「刻板立標」が写されている。

(下條正男)

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