実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第74回
独島は『分邦詳密大日本地図』所収の「大日本全国」に描かれていなかった
韓国の政策提言機関である「東北アジア歴史財団」は5月2日、独島を韓国領と広報する目的から『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」を「5・6月の古地図」に選定し、同財団のサイトに公開するとともに、6月末まで「独島体験館」に展示するとした。
「5・6月の古地図」の解説によると、萩原国三が作図した「大日本全国」では「朝鮮をはじめ、満州、ロシアの沿海州とサハリン等は日本領域と区分するため何も彩色していない。日本では独島と最も近い隠岐諸島を桃色で彩色し、日本の領土であることを表示している反面、欝陵島と独島には彩色がなされていないので、この二つの島は日本の領土でないことを分明にしている」として、日本自ら独島は日本領ではないとしたというのである。
だがこの解説は事実無根である。そこで今回の「実事求是」では、その『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」に描かれた「竹島と松島」は「欝陵島と独島」ではなく、「大日本全国」には独島(現在の竹島)が描かれていない事実を明らかにした。
1. 「東北アジア歴史財団」の三つの誤解
「東北アジア歴史財団」が犯した誤りの第一は、「東北アジア歴史財団」が独島とした『大日本全国』の「松島」は欝陵島のことで、「大日本全国」には独島(現在の竹島)が描かれていなかった事実。二つ目は、「東北アジア歴史財団」では『分邦詳密大日本地図』の「大日本全国」に描かれている「竹島と松島」を「欝陵島と独島」と解釈したが、その竹島は欝陵島ではなく、所在不明のアルゴノート島であった事実。最後は、致命的な誤謬である。「無主の地」だった現在の竹島が日本領に編入されたのは1905年である。これはそれ以前に作図された「大日本全国」に仮に竹島(独島)が描かれていたとしても、その竹島(独島)は当然、日本とは関係がなかった。従って、「大日本全国」で敢えて竹島(独島)を日本領でないとする理由がなかったという事実。
韓国の政策提言機関である「東北アジア歴史財団」では、その竹島が描かれていない『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」を「5・6月の古地図」に選定して、日本は竹島(独島)を日本領とはしていなかったとし、偽りの広報をしていたのである。
2. 萩原国三作図の『分邦詳密大日本地図』
「東北アジア歴史財団」が「5・6月の古地図」に選定した「大日本全国」は、1892年(明治25年)に出版された『分邦詳密大日本地図』に収載された一枚の日本全図である。その『分邦詳密大日本地図』を見ると、その扉には赤字で「長野縣小学校生徒皆勤之賞」と印刷され、それを囲むようにして明治24年度と印字されている。これは小学校の卒業生たちに皆勤賞の褒章記念品として配られた地図帳なのであろう。その奥付には「長野縣長野町御用書肆西澤喜太郎」とあるので、そこが発売元で、長野県内の小学校で使用されたのだろう。
その『分邦詳密大日本地図』について、「東北アジア歴史財団」では刊行年を1892年(明治25年)5月としているが、奥付によれば1892年版は再版で、初版は明治23年(1890年)8月に出版されている。さらにその奥付からは、『分邦詳密大日本地図』の発行者が杉本七百丸で、著作者は萩原国三であることが分かるのである。
だが「東北アジア歴史財団」が注目した『分邦詳密大日本地図』の「大日本全国」は、「竹島と松島」が描かれている点で、同時代に出版された類似の地図帳と比べても異質であった。それは同じ杉本七百丸が明治26年(1893年)7月に出版した学校用『大日本地図』にも金澤良太が作図した「日本地形図」が収録されているが、そこには「竹島と松島」は描かれていないからだ。これは明治21年(1888年)10月、大阪の嵩山堂から刊行された青木恒三郎が著作兼発行した『分邦詳密日本地図』の「大日本全図」も同様で、そこには「竹島と松島」が描かれていない。
この嵩山堂編纂の『分邦詳密日本地図』は、萩原国三が作図した『分邦詳密大日本地図』の刊行から10余年後、『分邦詳密日本大地図』として明治35年(1902年)にも嵩山堂から出版されているが、その「日本全図」に「竹島と松島」は描かれていなかった。
これは当時の地図帳には、「竹島と松島」が描かれているものと、描かれていない二種があったということである。事実、「竹島と松島」が描かれている地図帳は、萩原国三の「大日本全国」の外にも敬業社が明治24年(1891年)3月に再版した『日本新地図』がある。その「大日本全国図」にも、「竹島と松島」が描かれている。
そこで「東北アジア歴史財団」では、「大日本全国」に描かれていた「竹島と松島」を「欝陵島と独島」と解釈したのに続けて、「大日本全国」とその分図である『島根県全図』の関係を次のように解釈していたのである。
さらにまたこの地図集の 11番目の地図である『島根県全図』には、日本の北西側に位置する隠岐島を島根県と同じ色相に彩色している
反面、 独島はこの地図に表記自体が除外されている点では、日本の領土として認識されて いなかったことを確認することができる。
「東北アジア歴史財団」では、萩原国三が作図した『分邦詳密大日本地図』の「大日本全国」には「竹島と松島」が描かれているが、その分図である『島根県全図』に独島が描かれていないのは、独島を日本の領土と認識していなかった証拠だとしたのである。
だがそれは「東北アジア歴史財団」が分図を恣意的に解釈していただけである。その地図帳に収められた日本全図と分図との関係について、青木恒三郎が著作兼発行した『分邦詳密日本地図』の「緒言」では、次のように説明しているからである。
「一、該書巻首日本総図ヲ置キ、五畿八道ヲ順次ニ分配シ、各国毎ニ分図ス」
「緒言」では、巻首には「日本総図」(「大日本全図」)を置き、次に五畿八道を順次分配して、さらに各国ごとの「分図」にしたとしているのである。そのため書名にも「分邦」が使われているのである。
青木恒三郎が著作兼発行した『分邦詳密日本地図』の場合、国ごとの「分図」は、巻頭にある総図(「大日本全図」)を五畿八道に分け、それをさらに国ごとに分けて「山陰山陽両道全図」、「出雲隠岐全図」等としていたということで、「日本総図」(「大日本全図」)と「分図」(「山陰山陽両道全図」、「出雲隠岐全図」)は、密接に関係していたのである。それは「日本総図」である「大日本全図」に「竹島と松島」が描かれていれば、当然、「分図」にも「竹島と松島」が描かれており、「日本総図」に「竹島と松島」が描かれていなければ、分図にも描かれていない、ということである。
これは明治35年に刊行された嵩山堂編纂の『分邦詳密日本大地図』も同様で、総図の「日本全図」には「竹島と松島」が描かれていないので、「分図」である「石見国全図」と「隠岐国全図」にも「竹島と松島」は描かれていないのである。
それは「東北アジア歴史財団」が「5・6月の古地図」に選んだ『分邦詳密大日本地図』(「大日本全国」)を出版した杉本七百丸が、明治26年(1893年)2月に刊行した学校用『大日本地図』でも同じだったのである。その総図の「日本地形図」には竹島と松島が描かれておらず、分図の「山陰山陽二道之図」でも「竹島と松島」は描かれていないからである。
それが「東北アジア歴史財団」が「5・6月の古地図」に選んだ『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」と分図の「十一国之図」(「美作、伯耆、出雲、石見、備前、備中、備後、安藝、周防、長門、隠岐」)の場合、その公式が成り立たないのである。総図の「大日本全国」には「竹島と松島」が描かれているが、分図(「十一国之図」)には「竹島と松島」が描かれていないからである。
それを「東北アジア歴史財団」では、その『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」に描かれている「竹島と松島」を解釈して、「欝陵島はチュク島(竹島)、その東南側に独島を松島として表記している」とし、「日本では独島と最も近い隠岐諸島を桃色で彩色し、日本の領土であることを表示している反面、欝陵島と独島には彩色がなされていないので、この二つの島は日本の領土でないことは分明」だとして、分図については次のように解釈していたのである。
さらにまたこの地図集の11番目の地図である『島根県全図』には、日本の北西側に位置する隠岐島を島根県と同じ色相に彩色している
反面、 独島はこの地図に表記すること自体が除外されている点で、日本の領土として認識されていなかったことを確認することができる。
だが「東北アジア歴史財団」では、何故、『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」には「竹島と松島」が描かれ、分図である『島根県全図』には何故、「竹島と松島」が描かれていないのか、その説明を怠っていたのである。それは当時の地図帳では、巻頭には日本全図を載せ、続いて日本各地の行政区域を分図として掲載する形式が出来上がっており、その分図は、総図を「分邦」したものだったからである。それ故、書名も『分邦詳密日本地図』、『分邦詳密大日本地図』、『分邦詳密日本大地図』と称していたのである。
このように見てくると、「東北アジア歴史財団」が「5・6月の古地図」に選定した「大日本全国」は、「竹島と松島」が描かれていても「分図」(「十一国之図)とは関係なく記載されていたということである。
ではその「竹島と松島」が描かれた「大日本全国」は、何に由来する地図だったのだろうか。
3.『分邦詳密大日本地図』所収の「大日本全国」
「東北アジア歴史財団」が「5・6月の地図」に選んだ『分邦詳密大日本地図』所収の「大日本全国」は、当時の地図帳に収録された日本全図と分図の関係から見ても異形に属す日本地図であった。それは青木恒三郎が著作兼発行した『分邦詳密日本地図』の「緒言」で述べているように、当時の地図帳に掲載されていた日本総図と分図の間には関連性が認められたからだ。それは明治24年を初版とする嵩山房蔵版の『大日本地図』の題言で、「日本全図或ハ分邦図近来世ニ行ハルル者多シ」とし、「数国ニ分チテ図本トナセリ」としているように、日本の領土が分図(分邦図)に反映していたからだ。
しかし「東北アジア歴史財団」が「5・6月の地図」に選んだ「大日本全国」には「竹島と松島」が描かれているが、分図にはその「竹島と松島」が描かれていないのである。これは萩原国三の「大日本全国」は、当時流布していた「竹島と松島」が描かれた日本地図に依拠して作図がなされていたからである。事実、シーボルトが『日本全図』(1840年)を刊行して、アルゴノート島を竹島(タカシマ)とし、ダジュレート島を松島(マツシマ)と表記して以来、その島名が踏襲されていたからである。
だがその竹島は、所在不明の島とされ、松島の経緯度は欝陵島のそれであった。幕末から明治にかけ、竹島と松島が描かれた地図が流行するが、その松島は現在の竹島(独島)ではなく、欝陵島(ダジュレート島)だったのである。
その事実は、1863年のイギリス海軍の海図『日本─ニッポン、九州、四国及朝鮮一部』に竹島(アルゴノート)・松島(ダジュレート島)・リアンクルーロックスの三島が表記され、ベンジャミン・E・スミスの『日本及朝鮮』でも、竹島と松島の外に現在の竹島(独島)がホーネット島(リアンクルーロックス)と記されていることでも確認ができるのである。
萩原国三の「大日本全国」に描かれていた「竹島と松島」は、そのアルゴノート島(竹島)とダジュレート島(松島)で、現在の竹島(独島)ではなかったのである。
韓国の「東北アジア歴史財団」は、独島を韓国領と広報する目的で『分邦詳密大日本地図』収載の「大日本全国」を「5・6月の古地図」に選定したが、そこには独島は描かれていなかった。「東北アジア歴史財団」は読図を誤り、虚偽の広報をしていたのである。
(下條正男)