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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第48回

石島=独島説の誤謬と文世栄氏の『朝鮮語辞典』

 8月28日、韓国の『ハンギョレ新聞』(電子版)は、「『独島=石島』を立証する『朝鮮語辞典』初版本を見つけた」と報じ、『中央日報』(電子版)も「『独島は韓国固有の領土』裏付ける文献記録見つかる」と伝えた。その二日後には、韓国のKBSとTV朝鮮が放映するなど、1938年に刊行された文世栄氏の『朝鮮語辞典』が注目を集めていた。

 韓国側ではこれまで、1900年10月25日付の『勅令第41号』(第二条)に、欝島郡の行政区域が「欝陵島全島と竹島・石島」と明記されていることを根拠に、その石島を独島と解釈し、独島は1900年に韓国領になったとしてきた。今回、発見された文世栄氏の『朝鮮語辞典』には、その石島が独島であることを「裏付ける」証拠がある、というのだ。同書を発見した社団法人「私たちの文化を培う会」によると、『朝鮮語辞典』には【トク[名]、「トル(石)」の訛り。石】(トクは名詞で、トルの訛り。石である)とした記述があり、それは「当時、石島が独島の他の名称であったことを示す明白な証拠」なのだという。

 だがそれは「私たちの文化を培う会」関係者の独断である。社団法人「私たちの文化を培う会」は、昨年7月にも「林子平(1738~93)が制作した1802年版『大三国之図』」が、独島を朝鮮領(「朝鮮ノ持也」)としていたとして、事実無根の発言をした前歴がある。

 今回もまた、同じ過ちを犯している。『朝鮮語辞典』の同じページには、【トク(独)[名]、「タンドク」(単独)の略語】(独、名詞、単独の略語である)とした記述があるからだ。これを「私たちの文化を培う会」流に解釈すると、「トク(独)は単独の略語である。そのため独島は、単独に存在する島という意味から独島と表記された。従ってこの【トク(独)】は、独島が欝島郡の行政区域に含まれておらず、石島ではなかった「明白な証拠」である」。

同じ『朝鮮語辞典』の記述を根拠として、真逆の解釈ができるのは、【トク[名]、「トル(石)」の訛り。石】には、石島を現在の独島とする証拠能力が無い、ということなのである。

 竹島を不法に占拠する韓国側では、これまでも類似の詭弁を弄してきたが、『勅令第41号』の石島を独島とするためには、『勅令第41号』の成立過程から明らかにする必要がある。それは石島が「どの島か」ではなく、欝島郡の行政区域が定められた歴史的経緯を明確にすることだ。それに独島が文献上に現れたのは1904年9月、軍艦『新高』の航海日誌に「韓国人はこれを独島と書く」と記録されたのが早い例である。欝陵島の韓国人が現在の竹島周辺で漁撈活動に従事するのは、日本人に雇われて出漁した1904年頃である。その独島が、「石島となった」とするのは無理である。

 さらに大韓帝国関係者が独島に言及したのは、1906年。それも欝島郡守の沈興澤が、「本郡所属の独島が外洋百余里の外」にある、としたのがはじめである。だがその発言には、大きな問題があった。欝島郡守であれば当然、行政区域が「欝陵島全島と竹島・石島」であることを知っていたはずだからだ。それを竹島でも石島でもなく、独島を「本郡所属」としたのは、独島が『勅令第41号』で定められた欝島郡の行政区域外に、単独に存在していたからであろう。そのため欝島郡守沈興澤の報告を受けた大韓帝国政府も、混乱した。参政大臣が改めて独島の「形便」(状況)を報告するよう求めたのは、欝島郡の行政区域外に新たに出現した独島について、中央政府がその存在を把握していなかった証左である。

 では『勅令第41号』で定められた欝島郡の行政区域の範囲は、どこまでだったのか。これまで語源論を中心としてきた韓国側では、「本郡所属の独島」を石島とすることだけに熱心で、歴史研究を避けてきた。しかし『勅令第41号』は、1900年6月、欝陵島で日韓共同調査をした禹用鼎の「請議書」を基に成立したものである。

 その際、禹用鼎は自ら『欝島記』の中で、欝島郡となる欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」と明記している。それに欝陵島を周廻「一百四五十里」としたのは、1882年に欝陵島を踏査した検察使の李奎遠である。李奎遠は『啓本草』で、鬱陵島を「周廻、仮量為一百四五十里」とし、『欝陵島検察日記』では「此島環海、水路足為一百四五十里許」としている。さらに李奎遠はこの時、欝陵島の全容を画員の劉淵●(●は示すへんに古)に描かせ、『欝陵島外図』を残している。その『鬱陵島外図』は現存しており、それを確認すると欝陵島の属島として竹島(チクトウ)と島項が描かれているが、独島は描かれていない。

 この李奎遠の『欝陵島外図』は、その後の欝陵島の疆域認識の基本となり、日本側でもそれを踏襲していた。1883年、欝陵島に渡った内務少書記官檜垣直枝の「復命書」に添えられた欝陵島地図には、竹島(チクトウ)と島項が描かれているが、独島はない。

 1900年6月に日韓共同の欝陵島調査が行われた際は、朝鮮側では禹用鼎が視察官に任命され、釜山の日本領事館からは事務代理領事官補の赤塚正助らが参加し、海関税務士のフランス人羅保得(Laporte)が同行した。そのいずれもが欝陵島の位置に関する記録を残している。赤塚正助は「東経百三十度二分、北緯三十七度五分」とし、羅保得は欝陵島の位置を「北緯37度30分、東経131度」とした。これは周廻「一百四五十里」の範囲内にある。

 事実、赤塚正助が残した欝陵島の地図には、属島として空島、島牧、竹島の三島が描かれている。この内、空島は孔岩(島)を韓国語音に合わせて漢字で表記したもので、島牧も同様に島項の韓国語音を借字し、漢字で表記したものである。残る竹島は、欝陵島の東約2キロに位置する竹島(チクトウ)で、欝島郡の行政区域に記録された竹島である。島項は欝陵島の東北にあり、空島は欝陵島の北部に在る。いずれも独島とは関係がない。

 欝陵島調査後、視察官の禹用鼎が欝陵島を郡に昇格させるため、請議書を提出したのは1905年10月22日。それが10月25日、『勅令第四十一号』となり、郡の行政区域も「欝陵島全島・竹島・石島」と定められた。だが禹用鼎等の調査は5日ほどの短いもので、調査範囲も外輪船で欝陵島を一周しただけである。当然、欝陵島から東南に90キロ近くも離れた竹島には、渡っていない。その際、視察官の禹用鼎が認識していた欝陵島の疆域は、周廻「一百四五十里」の欝陵島一島であった。これは欝陵島に対する李奎遠の疆域認識を継承するもので、その周廻「一百四五十里」の中には、現在の竹島は含まれていなかった。

 その実態は、竹島(独島)が日本領に編入された後も、変わっていない。大韓帝国が1909年に刊行した『韓国水産誌』では、欝島郡の属島として竹島(チクトウ)と鼠項島(島項)を挙げているからだ。竹島が島根県隠岐島司の所管となっても、欝陵島の属島は依然として竹島(チクトウ)と鼠項島(島項)であった。これは欝島郡の行政区域の「欝陵島全島と竹島・石島」の中に、現在の竹島は含まれていなかった、ということなのである。

 「ハンギョレ新聞」(電子版)は、韓国側の研究者の発言として、「下條正男など一部の日本の学者が日本語の発音が同じという理由で、「石島=観音島」だと主張することは論理的に誤謬である事実を確認した」と伝えたが、それは虚言である。私自身、結果的には「石島=観音島」としているが、それは観音島が欝陵島の属島である島項だからである。観音島は日本側の呼称で、韓国側では島項である。それに私は、「日本語の発音が同じという理由で、「石島=観音島」だと主張」などしていない。この相手方の主張を曲解し、論難する手法は、韓国側の竹島研究ではよく見られるもので、自説にとって不都合だと判断した研究に対しては、相手方の論旨を我流に解釈し、それを論難して、論破したと錯覚するのである。私の見解を「日本語の発音が同じという理由」としたのは、その象徴的事例である。

 観音島とも呼ばれた島項(ソンモク)は、李奎遠の『欝陵島検察日記』等によると、「形如臥牛」(形、臥牛の如し)ということから、「牛の項(うなじ)」を意味する借字で、1909年刊の『海図306号』(「竹邊灣至水源端」)では、韓国語音に従って「SOMOKU‐SUM」と英文表記され、「鼠項島」と漢字表記がなされている。竹島(チクトウ)と鼠項島(島項)を欝陵島の属島とするのは、1909年刊の『韓国水産誌』でも同じである。私が石島=島項(鼠項島)としたのは、鼠項島を韓国の伝統的な読み方に従い、「反切借字」として読むと、「SOMOKU‐SUM」が「SOKU」(石)‐「SUM」(島)、石島と読めるからで、「日本語の発音が同じという理由」からなどではない。

 李奎遠の『鬱陵島外図』をはじめとして、当時の欝陵島の地名には、漢語だけでなく韓国語に由来する地名が、借字によって漢字表記されるものも多くあった。韓国語で「牛の項(うなじ)」を意味する島項も、借字して漢字表記したものである。

 それが『勅令第41号』が公布される際に、韓国語的表現であった島項が、「反切借字」によって漢語で表記されると、石島となるのである。「勅令第41号」で欝島郡の行政地域とされたのは、1882年の李奎遠以来の欝陵島の疆域である。そこには島項や竹島(チクトウ)はあっても、独島はなかった。それを荒唐無稽な語源論に依拠して、石島を独島と言い募るのは我田引水、牽強付会の説である。

 今後、韓国側が『勅令第41号』の石島を独島とするためには、最低限、欝陵島の疆域が「周回、仮量為一百四五十里」ではなかった事実を明らかにし、『勅令第41号』が公布される以前に、石島が独島と称していた確証を文献で示すことである。それができなければ、『勅令第41号』の石島を独島とすることは、許されない。ましてや『朝鮮語辞典』に【トク[名]、「トル(石)」の訛り。石】とあるからといって、それを根拠に、『勅令第41号』の石島を現在の独島とするのは、歴史を無視した妄言である。

 今回、『朝鮮語辞典』を発掘し、「これは当時、石島が独島の他の名称であったことを示す明白な証拠」とした社団法人「私たちの文化を培う会」の関係者には、感謝しなければならない。それは『勅令第41号』「第二条」の石島が独島(竹島)ではなく、竹島(独島)が韓国領でなかった事実を、改めて確認する機会を与えてくれたからである。

(下條正男)


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