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「大谷家文書」が語る竹島問題
はじめに
島根県は、2019(平成31)年1月15日大谷家の関係者から同家の先祖が江戸時代に村川家と共に、70余年鬱陵島や現在の竹島へ渡海していた実態を記すいわゆる「大谷家文書」500点以上等の資料を、県に寄贈いただいたと発表した。その後松江市や周辺在住の古文書の解読に堪能な皆さんの協力を得て、新しく整理した目録の作成や全文翻刻の作業がすでに開始されている。
私は島根県竹島研究会が2005(平成17)年6月発足すると委員の一人として同会に参加したが、その時期に東京大学史料編纂所が所蔵されている『大谷氏旧記』、『村川氏旧記』を全文複写させてもらい持ち帰り、すでに研究を開始されていた諸先輩の文献を参考にしつつ、第1期竹島問題研究会の『最終報告書』(2007年3月刊行)に「大谷家、村川家関係文書再考」なる拙論を載せてもらった。今般より具体的な竹島、松島渡海の資料が身近にあるチャンスに恵まれたので、解読に忙しい皆さんに解読された資料の一部を提供いただく等ご迷惑をかけつつ、日頃疑問に思っていた問題を解決しようと努力している。以下に文書解読が進行していることの報告と共に、目下個人的に検討していることの一端を報告してみたい。
写真1:島根県に寄贈された大谷家文書
1.大谷、村川家が「磯竹島」を「竹島」に
内藤正中氏はその著『竹島 (鬱陵島) をめぐる日朝関係史』 (多賀出版・ 2000 年刊) の第一章「磯竹島との関係史」の部に、「米子町人が渡海免許を申請するにあたって、日本海で新しく発見した島をどのような名称で呼んでいたかは、申請時の史料が現存しないのでわからない。「竹島」の名称が日本の文献で初めて使われたのが、いわゆる竹島渡海免許状であったと、私はみている。私の知るかぎり、それ以前の資料では、日本も朝鮮もすべて「磯竹島」という名称で鬱陵島を呼んでいるからである。」とされている。さらに内藤氏は磯竹島の古い事例として、奈良興福寺の多聞院の僧侶が書き残した『多聞院日記』の 1592(文禄元) 年の記録に鬱陵島産の人参を「いそたき人参」とあることや、豊臣秀吉が対馬の男が折々鬱陵島の木材を献上することを喜び、彼に磯竹弥左衛門という名を贈ったこと等を挙げ、江戸時代になると対馬藩の『対州編稔略』、朝鮮の『芝峯類説』等の文献からも磯竹島の島名での記載を紹介されている。
江戸時代以降の磯竹島の島名は、島根県関係の文献にも良く使用されている。まず元禄 9 年の竹島渡海禁止直前の幕府からの竹島、松島に関する松江藩への問い合わせに対する回答が『磯竹島事略』に「口上書松平出羽守」として載っている。そこには「竹嶋之儀雲州ニ而者、磯竹と申候事」を始め鬱陵島はすべて磯竹、磯竹島で表現されている。幕府の直轄地で松江藩や石見銀山代官の預かり地だった隠岐では、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』等の神話に登場する五十猛命 (いそたけるのみこと) との関係で磯竹が語られる。神話では五十猛命は父須佐之男命 (すさのおのみこと) と天上界を追われ、新羅に天下ったがその地が自分達に適さないとして舟でその地を離れ出雲の地に上陸した。その後父の須佐之男命は奥出雲でヤマタノオロチを退治するし、森林の守護神であった五十猛命は自分の周囲を緑の森にしながら木の国に向かった。木の国とは紀伊の国 (和歌山県) とも吉備国 (岡山県) だともいわれる。この五十猛命と関係づけながら松江藩士で隠岐の郡代になった齋藤勘助 (豊宣) は 1667(寛文 7) 年隠岐の地誌『隠州視聴合記』をまとめるが、その中で「戌亥間行二日一夜有松島又一日程竹島 (俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書五十猛歟) 」と記すし、『隠州視聴合記』の初期の写本とされる隠岐の釜村の大庄屋佐々木家のいわゆる『佐々木家本』にはさらに「五十猛嶋ト国史ニ云」という書き込みがある。
なお五十猛命が上陸したとされる場所は現在でも五十猛 (いそたけ) という地名で残存し、大田市五十猛町に所属する。この地には五十猛神社があり五十猛命を祭神としていたが、後に漁港として繁栄すると韓神新羅神社と社名が変り、祭神も勇敢な須佐之男命となっている。磯竹島の島名は松江藩が明治維新後島根県となっても、明治 9 年の竹島の地籍を明治政府から問われた時も、添付した「原由の大略」という説明書に「磯竹島、一ニ竹島ト称ス」とし、添付した図も「磯竹島略図」とあり磯竹島の島名を用いている。松江藩以外でも特に対馬藩は、鬱陵島の所属に関する朝鮮国との交渉で該当の島は「日本では磯竹島と云う」として磯竹島の島名を使用したことが、 1614(光海君 6) 年の『朝鮮王朝実録』の「光海君日記光海君六年九月辛亥条」の記事等で確認出来る。
この磯竹島が大谷、村川家によって竹島になったという内藤正中氏の指摘は、大谷家文書からはまだ直接的には確認出来ない。ただ享保 9 年徳川吉宗の時、竹島に関する問い合わせが鳥取藩にあり、鳥取藩が関係先から集めた絵図の一つに「小谷伊兵衛殿ニ所持被成候絵図之写」があるが、その絵図内に元禄 9 年竹島渡海禁止となって以降享保 9 年までの間 29 年が経過しているが、生存する水主達の語った事が朱書されている。その中に「竹嶋之儀は、世上ニ而磯竹嶋共申候得共、私共両人手前ニては竹嶋と唱申候」と語ったことが記されている部分がある。すなわち世間一般では磯竹島と云っているが自分達や、大谷、村川両家では竹嶋と呼んでいたと言うのである。鳥取藩内で当時磯竹島の島名を用いているものは、元禄 9 年幕府に提出された「小谷伊兵衛より差出候候竹嶋之絵図」と享保 9 年小谷家が鳥取藩に提出した「小谷伊兵衛ニ所持被成候竹嶋之絵図之写」の図内へ磯竹島、磯竹の記載と松江藩に隣接する地域の地誌である『伯耆志』に米子城代荒尾氏が用いる磯竹の呼称が確認出来る。また同じ荒尾氏が坂川分左衛門、大脇多左衛門なる者に大谷家船が朝鮮国へ漂着した事を知らせる手紙に「磯竹へ渡海船之内一艘」とした記述があるだけである。小谷伊兵衛の場合は鳥取藩の江戸留守居役として元禄 2 年から元禄 13 年まで藩と公儀との折衝を務める最前線の重職にあったが、大谷、村川という米子の町人が一時米子にいた旗本阿部四郎五郎に取り入って鳥取藩を飛び越えて 13 回も公儀御目見得の特権を得たり、干鮑贈答を将軍以下幕閣にする等勝手な振る舞いが目立ち恐らく不快に思う面があり、大谷、村川家が用いる竹島の島名より世間一般や隣の松江藩が使う磯竹島の島名を利用した可能性がある。大谷家文書について個々の資料を点検しているが、最近「磯竹百合草」という固有の植物名として磯竹を大谷文子氏作成の大谷家古文書目録 2 ー 47 に発見した以外は磯竹、磯竹島の記述はまだ見つからない。なお同じ植物名を 2 ー 81 の文書は「竹島百合草」と記している。
写真2:すべて磯竹島と記す松江藩の口上書 (『磯竹島事略』元禄 9 年正月の項より)
2.大谷家文書にも「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」
名古屋大学池内敏教授が 2015 年 2 月発行の『日本史研究』 630 号に「「国境」未満」という論文を発表され、米子市立図書館の「村川家文書」に「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」という文字の記載があることを紹介された。この「村川家文書」は大正時代に『米子市史』編纂の為に各方面に散在していた村川家関係資料を収集したものである。内容も 1696(元禄 9) 年 1 月 28 日老中戸田山城守から「向後竹嶋渡海之義制禁可申付旨被仰出候」との御奉書が手渡され、竹島渡海が禁止されてから 44 年後の 1740(元文 5) 年に大谷九右衛門勝房が江戸の寺社奉行所に「ご廻米船借」、「長崎貫物連中加入」を願い出た時、奉行の一人牧野越中守が質問の中で「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制ニ被為仰出候以後は伯州米子の御城主より御憐愍ヲ以渡世仕罷在候由願書ニ書顕候段然は扶持抔請申候哉」と質問した中の記載である。村川家文書と同じ文書が大谷家文書にも含まれることは多数あるので大谷家文書にも同様のものの存在は想像していたが、 2019 年 6 月 16 日の島根県竹島問題研究会で委員の塚本孝氏が「元禄九年の竹島渡海禁制と松島」と題する発表の中で、大谷文子氏編纂の「大谷家古文書」の目録番号 3 ー 33 と 3 ー 34 に池内氏紹介と同じ内容の古文書があることを紹介された。また別に竹島資料室の女性スタッフからは目録番号 4 ー 8 の八代大谷勝起時代の年代不詳「乍恐奉申上候口上」に「竹嶋松嶋両嶋渡海制禁」の文字があることも知らせていただいた。この文書は大谷九右衛門が米子城代荒尾氏の家臣村河与市左衛門、村瀬新左衛門に宛てて大谷家の歴史を説明したもので、家業を失い困窮した理由を「竹嶋松嶋両嶋渡海制禁」によるとしている。この文書は「辰三月十六日」としているが、勝起時代の辰年は 1772(安永元 ) 年だけであるから、元禄九年の竹嶋渡海禁止からは 70 年以上経過しての記述ということになる。
このように「竹嶋松嶋両嶋渡海制禁」の用語は竹島へ行けなくなった関係で岩礁の島である松島にも行く機会がなくなったことを祖先の偉業と共に 40 年以上経過した段階で追憶し、数量は少ないが松島鮑という名前で特別の評価のあった鮑やアシカの漁猟を断念せざるを得なかった無念さを吐露する中で松島も渡海禁止とされた竹島と同等の島として語られたり、寺社奉行のように第三者が推測して用いたことを示す事例だと思われる。
なお池内敏氏は別に「日本外務省による大谷家文書調査」 (『名古屋大学附属図書館年報』 2016 ・ 3) という報告もされており、外務省が借りた 43 部の大谷家文書を表記されているが、大谷文子氏の目録番号 4 ー 8 は借り出されているものの、 3 ー 33 と 3 ー 34 は借り出されていない。また島根県が寄贈を受けた大谷家文書の中に、各方面からの書簡類も含まれているが、この外務省の借用書と川上健三氏から大谷家への礼状もその中にある。
写真3:大谷九右衛門勝起から米子の役人宛書状 (大谷家文書 4 ー 8)
3.大谷九右門勝房と大岡越前守の問答
前述した大谷文子氏の大谷家文書目録3ー33には、同氏による付紙があり、「七代勝房代一冊元文四年江戸逗留中提出の願書吟味の為御奉行所より呼出しあり大岡越前守との問答控」とある。大谷文子氏が奉行の代表格牧野越中守より大岡越前守との問答控としたのは越前守が数多くの質問をしたり、町奉行時代の活躍が世間に知られ知名度が高い事によると推測される。また勝房と寺社奉行の対面を元文四年としておられるが、文書を見ると申年のこととなっており、庚申の年である元文五年が正しいと思われる。
大谷勝房は元禄5年わずか7才で大谷家当主となり、翌元禄6年には連行されて来た安龍福、朴於屯を自宅に逗留させたし、元禄9年には幕府から鳥取藩経由で竹島渡海禁止を命じられ家業を失い松江藩内の大原郡加茂村に嫁いでいた姉を頼って雲州への移住をしようと決意するが鳥取藩から藩外への移住を許されず、藩が提供した魚鳥を扱う問屋業に従事していた。この件に関しては大谷家文書目録1ー42「元禄九年七月十四日付「荒尾近江成倫公より米子御仕置役益田権九郎村井権兵衛両名宛御状「御城下魚問屋口銭を九右衛門一人へ仰付村川市兵衛には塩口銭取仰付の事を村瀬新左衛門へ口上申入候」」や6ー93「文久元年勝廣記「正徳五年七代勝房魚鳥問屋開店安永五年迄六十二年安永六年より文久元年迄八十五年合計百三十七年」等連続する4通の文書にくわしい。そして勝房はさらに新たな事業の許可を、担当の寺社奉行所へ提出していた。3ー33の主な部分を翻刻すると
「申ノ四月十七日牧野越中守様●御差紙ヲ以明十八日四ツ時御屋敷江私儀罷出可申与被為仰附候故御請書差上随而十八日四ツ時参上仕相窺罷在候得者御奉行様方例月之通御寄合被為成諸願之吟味相始リ私儀被為召出乍恐罷出相窺居申候」(●は合字の「より」)
から始まり
「御奉行様方御座敷之次第一、牧野越中守様一、本多紀伊守様一、大岡越前守様一、山名因幡守様
右之通御蓮座被為成候御次ノ間御家々之御下役人衆中様方御蓮座被成候其御次ノ間ニ而私共奉差上候御願書御役人様方御持出シ被成候得而御奉行様方御前ニ而御よミ上被成候へ而相終り申候」
と奉行名、座す部屋の相違、願書の読み上げ開始等のことが記されている。その後尋問に移り先ず常陸笠間藩八代藩主で当時寺社奉行その後大坂城代になる牧野越中守が「九右衛門竹嶋之支配ヲハ誰が致候哉」と尋ねた。駿河田中藩の二代藩主で後幕府の老中に昇進する本多紀伊守(本多正珍)も同様の質問をしたので勝房は「竹嶋御支配之儀先祖之者共相蒙私共■も司配仕来申候」(■は「しんにょうに占」)と大谷甚吉の渡海以来自分の代まで長らく竹嶋への渡海を続けていたことを説明した。これに対して「御奉行様方御一同ニ夫者重キ事哉与御意被為成候」と奉行全員長期にわたる渡海事業に感嘆した。次いで牧野越中守が例の「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」の言葉を入れて、禁制後の鳥取藩からの「御憐憫」について「扶持など請申候哉」と尋問したので、勝房は「御扶持ニ而者無御座候」とし「米子城下江諸方●持参り候魚鳥之問屋口銭之座、則私家督与被為仰附下シ被置候」と米子での魚鳥を扱う問屋の仕事をいただいたことを説明し、一緒に渡海していた村川市兵衛家は塩問屋となった事も説明している。将軍徳川吉宗の元で18年間江戸町奉行を務めた後、寺社奉行となり後には現在愛知県岡崎市付近にあった西大平藩初代藩主になる大岡越前守が続いて勝房の願書について自分の考えを「長崎表之儀者長崎御奉行所之作舞并御廻米之儀者御勘定方懸りニ有之候得者此方之作舞ニ而無之候故此儀者御勘定所江相願申候得而可然筋ニ候」とした。これに対して牧野越中守、本多紀伊守が「イヤイヤ左様ニ而者無御座候、九右衛門●御願之筋則御上江御伺申上候得而、其上御差図次第ニ而御勘定方長崎御奉行所へ茂差出シ可申候与御詰開キ被為遊候」と勝房の行動を擁護している。この長崎貫物連中加入と大坂廻米船借用の件は「申ノ五月三日御役所様へ乍恐為御伺参上仕候得者、田中小右衛門様御出合被仰御口上之趣其方御願之儀未何之御沙汰相下リ不申候」であり、その後の勝房関係の文書からも願書が受け入れられたことを示すものはない。なお寺社奉行と勝房の問答の場では大岡越前守が「九右衛門竹嶋者大嶋与絵図ニ而相見候嶋山之風景竹木草類禽獣鳥類日本之模様トハ品少々者相替り申候哉」とも質問している。これに対し勝房は「私先祖甚吉儀者自分ニ渡海仕候得而其身竹嶋ニ而病死仕候、夫以来者嶋主共私共両人共ニ渡海自分ニ者不仕候故私共眼前之儀者不奉存候」と大谷甚吉以外は大谷、村川家当主で渡海した者はいないので竹嶋の具体的な様子はわからないと答えている。また牧野越中守、本多紀伊守、山名因幡守はみちすなわちアシカのことについて質問している。山名因幡守は当時但馬国志津見に七千石の所領を持つ本名山名豊宣(正しくは口偏に宣)なる人物であった。(●は合字の「より」)
写真4:寺社奉行からの尋問を記す「大谷家文書 3 ー 33 」
4.大谷家文書に含まれていた「天保竹島一件の御触書」
天保竹島一件とは、浜田藩の松原浦の廻船業者今津屋八右衛門が 1836(天保 7) 年に過去に渡海して竹島 (鬱陵島) から木材等を持ち帰っていた事が発覚して逮捕、処刑され、翌天保 8 年 2 月全国へ竹島渡海の禁止の布令が発せられた史実をいう。そのいわゆる「御触書」が現在どの程度全国に残存しているかということに私は興味があったので、自分で調べたり各地の研究者に協力を依頼し収集した。 2013 年 8 月それまでに集めたものを「天保期竹島渡海禁止の高札、御触書について」と題するレポート、その後最近までに新たに入手したものについては 2019 年 8 月「「天保期竹島渡海禁止の高札、御触書について」補遺」として発表した。いつの間にか日本海側では高田藩のあった新潟県から長崎県の対馬まで、太平洋側では仙台藩の支配下にあった現在岩手県陸前高田市の吉田家文書から鹿児島の島津家文書までの広い範囲で見つかった。今回大谷家文書の中からも御触書を見つけていただいたが、大谷家の属する鳥取藩では過年私は鳥取県立博物館所蔵の鳥取藩政資料『控帳』から発見していた。その文書は冒頭に「公儀之御触左之通今日左之面々江申渡候」として御代、御舩手、勘定頭、と米子と八橋 (やばせ) の関係者に伝えるとしている。米子は鳥取藩家老の荒尾氏が、八橋は家老津田氏が自分手政治を許可されて半独立の一つの城下町を形成していた。その内の米子には大谷家、村川家が苗字を許された町人として居を構えていた。大谷家文書に含まれていた天保竹島一件の御触書は、全国に発せられたのと同じ内容で二月の月も記され、追記の形で米子の役人か有力者と思われる安本助右衛門なる者からのお触れである。現在の米子市に入る大篠津村の明治 4 年からの戸長に安本喜三郎、明治 12 年からは安本亨という安本姓の人がいるから安本助右衛門も在地の有力者の可能性がある。続いて末尾に「三月廿二日、別触中」と特別の御触書であると使用目的が記されている。大谷文子氏はこの文書を「勝房代、年不詳竹島渡海制禁以後彼の島に渡りし者あるにより、板札を以て制禁告示ありその写し」と解説しておられるが、勝房は大谷家七代当主として 1692( 元禄 5) 年に家を継いでいるから天保 8(1837) 年とは時期が相違し、恐らく十一代大谷勝廣が当主の時代に写された文書と思われる。
大谷家文書に八右衛門に関する御触書があったことで、もう一つ連想させられることがある。それは明治 10 年戸田敬義が自分の居住する東京府知事楠本正隆に「竹島渡海之願」を提出したことに関係する。もと鳥取藩士族で明治 9 年鳥取県が島根県に併合されたために島根県士族になった戸田敬義は、八右衛門の渡海を文献で知っており竹島の開拓をめざした。願書には絵図を添付し、「図画ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家ニ求ム」と八右衛門が天保 4 年現地で描き、帰国後誰かが写し持主権吉と書き込みのある「竹島之図」甲と同種の別の図乙の二葉の図を添付した。伯耆の一漁師の家とはどこか全く不明であるが、士族身分の戸田敬義が一般の零細な漁師と交流があったとは考えにくく、八右衛門の御触書を持っていた伯耆の大谷家が八右衛門によって描がかれた「竹島之図」の写しも所持していたのではないかと推測される。ただ大谷文子氏の『大谷家古文書』にはこの絵図を所持していた事も、明治初期戸田敬義に手渡した等の記述はない。なお戸田敬義やこの絵図については、 2011 年 7 月私は「戸田敬義と「竹島渡海之願」」と題するレポートにまとめて Web 竹島研究所に発表している。
写真5:大谷家文書に載る「天保竹島一件の御触書」 (大谷家文書 1 ー 47)
5.元禄6年大谷家船の安龍福、朴於屯連行に関係する文書
江戸幕府の許可を得て大谷、村川家は一年交代で無人島の竹島 (鬱陵島) で鮑やアシカの漁猟、木材や竹等の植物の採取をして持ち帰っていたが、村川船が元禄 5 年初めて島で朝鮮人と出会い、翌 6 年には大谷船もより人数の多い朝鮮人と出会った。両年とも船頭であった黒兵衛等は日本語も話せる安龍福と朴於屯を連行して米子に帰って来た。その時のことは鳥取藩の藩政資料『控帳』、『御用人日記』や『因府年表』、『因府歴年大雑記』、『増補珎事録』、『伯耆志』さらに岡嶋正義の『竹島考』にも記載されているが、自分の家の船で連行して帰り、しばらく自分の家に 2 人を逗留させている大谷家の記録にはどういう内容が書かれているか関心がある。
まず大谷家文書 1 ー 34 に「竹島の朝鮮人二名召連れ帰湊模様船頭の口上覚」がある。元禄 6 年 2 月 15 日米子を出発後島根半島の雲津、隠岐島後の福浦を経過して 17 日に竹島に到着の事、そこには「めの葉大分ほし有之ニ付、不審ニ奉存、近辺を見申候へハ、唐人のわらじ有之ニ付、弥無心元奉存候」という状態があった。翌日通詞等 2 人を召連れ竹島ヲ出船仕、同廿日隠岐国福浦江参着、福浦では北方、南方村の年寄、庄屋が通詞から聞き取りをし、番所からは唐人に酒樽が贈られた。福浦を同廿三日出船、島前へ参着、同廿六日島前出船、雲州の長浜を経て廿七日米子に入津している。この「口上之覚」は船頭黒兵衛と平兵衛が卯月廿七日と帰着した日の日付で差出したとされている。この大谷家に残っていた文書は『因府歴年大雑集』の同年 4 月 27 日の条にも載っている。大谷家文書 1 ー 32 と 1 ー 33 に載る「朝鮮人目録」は 4 月 21 日付けと大谷家船が隠岐福浦に帰着した段階から安龍福、朴於屯に関する情報を列記している。安龍福については、「名ハアンべンチウ、在所トリ子ンキト、年四拾三」とし、朝鮮本土から竹島へ来島した理由、自分が乗っていた船の仲間の名前、所持していた飯米、塩の量等を記している。また別に福浦で南方村の年寄与左衛門、庄屋九左江門、北方村の年寄佐之助、庄屋甚八が聞き取って隠岐郡代田邊甚九郎、島後代官三好平左衛門に届けた「唐人ノ内通シ申口」も列記している。 1 ー 31 の「元禄六年四月付朝鮮人召連れ参府諸事控」は最初に「乍恐口上之覚」として船頭平兵衛と黒兵衛の口上書を最初に掲げるが竹島では「いか島」に最初到達したことに触れる等前記のものと内容に若干の違いを記している。後半には大谷家の当主勝房が幼少の為、後見人の大谷藤兵衛と船頭 2 人が五月十三日米子から鳥取城下の会所に出向き述べたことが大谷九右衛門から村川市兵衛宛ての文書として載っている。安龍福と朴於屯が米子から鳥取へ移送されるのは五月二十九日の事である。約一ヶ月米子の大谷家に安龍福等が逗留する間には「アンビンシュン ( 和語通詞なり ) 気晴に出可申出、色々わやく申候由、修理迄申来候得共、外に出候事無用と差図申事、且又酒給度由得共、是又晝夜に三升より上は無用の由申達候事」 (「控帳五月十一日」) のような米子から鳥取への連絡、鳥取からの指示もあった。なお修理は荒尾修理を意味し、当時の米子城代荒尾大和の叔父のことである。これ等に対応する大谷家の具体的な処置に興味があるが、目下そうした事の細かな内容の大谷家文書は見つかっていない。ただ逗留した大谷家の屋敷については 1681(延宝九) 年巡見使が逗留した時の 1 ー 19 「御巡見様の御宿致し竹島に就き御尋ねあり其の御請書の控」や 1810(文化 7) 年の 6 ー 201 等 5 枚の「大谷家家舗絵図」が「大谷家文書」の中にありそれを通じて若干のことは推測できる。なお 6 ー 204 等によれば大谷家の近接地に「吉祥院」という寺院があったことがわかるが、この寺院は現在の米子市灘町 2 丁目に現存している。
写真6:大谷家屋鋪絵図
6.大谷家文書にみる大谷家の誤認
大谷家は町人であり居住する米子は、鳥取城下から遠く離れた地にあった。江戸の幕府からの指示等も親交のある旗本阿部四郎五郎家やその家臣亀山庄左衛門を通じてのことが多かった。その為か我流の判断になったり、藩や江戸からの若干恣意的な情報によった為か誤った事を文書に残していることもある。例えば大谷甚吉の竹島漂流が「永禄年中」とある。永禄は 1558 年から 1570 年までの元号で江戸時代以前のことになるが甚吉の竹島漂着は 1617(元和 3) 年とされている。永禄は大谷家が米子に移住した時の元号である。また大谷家船で連行された安龍福、朴於屯は「於鳥府御吟味之上唐人江府ニ爲届御穿鑿」と江戸で詮議を受けたとしているが、実際は鳥取城下から長崎へ陸路送られている。さらに朝鮮への国書を対馬藩で偽造したり改竄していることを柳川調興が暴露したいわゆる柳川事件を「柳沢氏の変」としている等である。
しかし大谷家の最大の誤認は、幕府の竹島渡海禁止の理由に関してである。大谷家文書 1 ー 1 、 1 ー 2 に「大谷家由緒由実記上」がある (1 ー 1 は大谷文子氏がご生存中米子山陰歴史館に寄贈され島根県へのものには含まれていない) が、その中に元禄 6 年大谷家船が安龍福、朴於屯を日本へ連行したこと等から「朝鮮貞王ヨリ竹嶌ノ儀唐土地相違無之由通達有リ」と論争になったが、幕府が竹島は日本国の領土と認める証文を朝鮮国から提出させた上で、竹島をしばらく朝鮮国王に預けられたと記されている。大谷家文書 3 ー 34 には証文を受け取った時期について、「御証文常憲院様御代御請取被為遊候」と 5 代将軍綱吉の時としている。大谷家文書 3 ー 42 「寛保元年六月十日付長崎御奉行宛「嘆願口上之覚」」にも大谷家の事情に触れながら「朝鮮国王より右竹島は日本の御支配に相違い之無き旨御証文御取付遊ばされ候上にて右私共頂戴仕り候御奉書御改め遊ばされ候旨仰付け奉り差上申候其の上にて渡海之儀己来御制禁之旨伯耆守様迄御奉書相下り候御事元来私共祖先の者右島見出し御注進申上候故日本の御支配に遊ばされ候様恐れ乍ら存じ上げ奉り候」と朝鮮国王から竹島は日本領であることを認めさせた証文があること、先祖の大屋甚吉の竹島渡海で竹島が日本領になったと述べている。竹島渡海禁止の理由としては国立公文書所蔵の『公文録』や島根県公文書センター所蔵の「明治 9 年地籍」に綴り込まれた地籍編纂方伺の参考説明資料でも同様の理由としているが、朝鮮国と幕府の指示で対馬藩による外交交渉が元禄 12 年まで続く中での幕府の施策であり、鳥取藩や松江藩への幕府の問い合わせを考慮すれば幕府側から恣意的な言辞があった可能性を考慮しても、大谷、村川家側の誤認があったと考えざるを得ない。
写真7:大谷家文書 1 ー 2 の「大谷家由緒実記上」
7.大谷、村川家の竹島渡海再開願?
大谷文子氏が編された『大谷家古文書』は最初に「一、つづらから出た古文書」として大谷家文書との出会いや当時面会した外務省の川上健三、隠岐の橋岡忠重氏等の事を書き、「二、大谷家の起源」では大谷家のルーツを簡単に説明し、「三、大谷家古文書目録」で七箱にあった五百七十四点の文書を整理した目録と標題を記し、「四、「竹島渡海由来記抜書控」の解読」には 11 代当主勝意が文政期に漢文体でまとめた「竹島渡海由来記抜書控」をわかりやすく解読し、さらに米子に移ってからの大谷家初代九右衛門勝宗から勝房までの当主の業績をまとめ、「五、竹島渡海制禁後の家業」が勝房時代を中心に家業のことがくわしく書かれている。
その勝房時代の 1724(享保 9) 年将軍吉宗から鳥取藩へ竹島に就いての御尋があり、藩の指示で勝房は七ヶ条の御請書を提出している。 3 ー 21 の「享保九年四月三日付江戸表吉宗公御墨付を以て竹島の御尋ねあり鳥府表迄七ヶ条の御請書を差出村川市兵衛大谷九右衛門連名の控」がそれである。吉宗の積極的な海外雄飛の施策を感じ取った大谷、村川家は竹島渡海再開の好機ととらえ、江戸へ関係者の出府を求められると村川市兵衛正勝が多数の書類を携えて参府し再渡海を嘆願したと『大谷家古文書』は述べている。正勝は元禄 2 年村川家の家督を継ぎ、元禄 7 年 3 月公方様御目見得の榮に浴したことを米子市立図書館所蔵の『郷土資料 村川家 附竹島渡海』が記している。なお前記の「竹島渡海由来記抜書」も文政期に勝意が竹島渡海事業の復活を期待してまとめたものだと大谷文子氏は考えられている。確かに大谷家文書 4 ー 35 の「竹嶋江渡海之次第先規より書付之写」には「元禄十一寅年八月村川市兵衛儀江戸江居残殿様御威光を以竹嶋渡海之儀御願申上候」と竹島再渡海を願出たことはあるが元禄九年の竹島渡海制禁直後の元禄期のことで、吉宗の享保期ではない。一方大谷勝房は地元に留まり、江戸表での嘆願を側面から助ける活動に専念したという。特に大谷家文書に数多く残っている「日光宮様」の助力を期待した。日光宮様とは上野東叡山寛永寺貫主のことで、日光山輪寺門跡を兼務することでその名があり、江戸幕府や武士からは日光御門主様、江戸庶民からは上野宮様とも呼ばれていた。大谷家文書 3 ー 1 「日光宮様御館入由緒記録」、 3 ー 2 「日光宮様との由緒書状写し」、 3 ー 10 「日光御坊官御中へ大谷九右衛門差出書の控」等はそうしたことに関連する文書と思われるが 3 ー 1 の「宮様松平相模守様江九右衛門身分之義御願之被為済」とか、 3 ー 2 の「然者先頃御内緒申入候通此度御自分伯州米子之御城主江宮様●為御願」のような漠然とした記述ばかりで、願の内容を具体的に記すものは目下見当たらない。 1737( 元文 2) 年勝房は江戸に出府し日光宮様の御目見得を得、願書に御添書もいただいたりしたが竹島渡海再開が実現することはなかった。日光宮が大谷家の願書を届けてやっている相手も幕府ではなく、鳥取藩主松平伯耆守、松平相模守が多いのをみると、具体的な願書の多くは竹島渡海の再開より身近な家業の保全等が中心ではなかったかと推察される。なお大谷家文書には日光宮様を上野宮様と記したものもある。この竹島渡海再開願については、名古屋大学教授池内敏氏が「『竹島考』ノート」 ( 『江戸の思想』 9 ・ 1998 年 ) で 1828( 文政 11) 年鳥取藩士岡嶋正義が著した『竹島考』の分析で、岡嶋は享保 9 年のお尋ねを幕府が「通船再興ノ企有シコトナラン」と考えたが、鳥取藩や大谷、村川家の行動を「元来竹島ハ伯耆国ノ属島ナレバ故、速ニ是ヲ収復スルノ計識アル可コトナリ」が実現されなかったことに不満を述べていることを紹介されている。(●は合字の「より」)
『大谷家古文書』は最後に「六、大谷家の系譜」を書き、七代勝房の所には「竹島渡海禁制となり魚鳥口座の家禄を頂き商売開始す江戸へ出府し前事業の継続拡張を嘆願す宝暦四年二月四日七十三才没」とある。大谷文子氏の御夫君大谷弘氏は 14 代大谷家当主でお二人の長男武廣氏が 15 代の当主として最後に掲載されている。その武廣氏が「元気だった母も七十五歳となり、今冬の寒さが持病のリウマチにこたえて、手足の不自由を訴えるので、母に替って「あとがき」を書いた次第である」と昭和五十九年六月十八日の日付けで「あとがき」を書かれ、『大谷家古文書』は昭和 59 年翌 7 月大谷文子氏御存命中に刊行されている。
写真8:大谷文子氏の『大谷家古文書』
8.大谷家文書が記す10回竹島渡海をした水主の存在
大谷家文書の 3 ー 21 に「享保九年四月三日付江戸表吉宗公御墨付を以て竹島の御尋ねあり鳥府表迄七ヶ条の御請書を差出す村川市兵衛大谷九右衛門連名の控」がある。 1696(元禄 9) 年大谷、村川家の竹島渡海が禁止されてから 29 年後の享保 9 年第七代将軍徳川吉宗から、鳥取藩へ大谷、村川家の竹島渡海について御尋ねがあり、御書すなわち回答書を大谷、村川家が連名で鳥取藩へ差し出したというのである。続いて同じ日付けで大谷家文書は 3 ー 22 「御尋ねの御請書「竹島願書」控」、 3 ー 23 「存名中の水主有り哉に対する御請書控」が、六月廿三日付の 3 ー 25 には「存命の船頭住所氏名年齢書」がある。 3 ー 25 には、大谷家もあった灘町から弥三兵衛七十二歳、長右門五十三歳、吉兵衛七十九歳が、村川家のあった立町からは源右門八十四歳、惣兵衛七十五歳が、灘町、立町に隣接する片原町 ( 現在は天神町 ) からは長兵衛六十三歳、太兵衛七十二歳の水主の名が現存者として記されている。そして灘町の吉兵衛には、「四拾三年以前迄十度渡海仕候由」と 10 回の竹島渡海を経験したことを追記している。鳥取藩は享保 9 年吉宗の元へ「幕府提出図」も作成して提出した。その図は鬱陵島を竹島とし、「大谷家由緒実記上」や「竹嶋江渡海之次第先規より書付之写」に載っている「有増之絵図」 (あらましのえず、大谷家が古くから所蔵する大きな竹島、松島図を縮小して粗描したもの) を用いていることがわかるが、吉兵衛のように 10 回も渡海した存名中の水主の聞き取りを重視してか大谷家の図は松島から福浦の間は 70 里だったのが水主達からの聞き取りで彼等の言う 60 里に変わっている。
写真9:竹島渡海体験の水主名を記す大谷家文書 (大谷家文書 3 ー 25)
おわりに
大谷家文書の原本を私は手にし、島根県竹島資料室の別室で解読作業を続けておられる皆さんから助言も得て疑問に思っていたいくつかの内容を検討している。まだ幕府と大谷家の仲介役だった阿部四郎五郎家やその家臣亀山庄左衛門からの書簡についての考察等継続したいことは、数多く残っている。池内敏氏は2019年2月刊行の『名古屋大学人文学研究論集』二に、「十七世紀竹島漁業史のために」という論考を書かれた。その「おわりに」の部分にさらに「付記」として「大谷家文書」が一括して島根県に寄贈されたことを紹介し、貴重な資料が散逸せず一括して公的機関に保管されることになったことは喜ばしいとされている。また大谷和広氏が「大谷家文書の存在によって竹島が日本領として証明できたことは誇りに思う」と言われたことに対して、「大谷家文書の内容を読み解くと却って竹島は日本領だとは言い切れないことも明らかになる」と申し上げたことも述べられている。そこには積み上げた自分の研究成果に並々ならぬ自信の発露が読み取れるが、一方で大谷家文書が竹島問題に関する重要資料であることの示唆でもあろう。氏は2019年6月に「日本史研究」682号に「「老中の内意」考」という論考も掲載されるが、その中の注で「これまでに川上健三を除き、大谷家文書の原本を用いて竹島研究を行った者はない。」と記されている。身近に大谷家文書の原本に接することが可能になった現在、島根県に関係ある研究者から第二の川上健三氏が出現して欲しい。
(前竹島問題研究会研究顧問 杉原 隆)
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