1952年1月18日。冬の日本海に1本の線が引かれた。「李承晩ライン」。韓国による一方的な宣言は、島根県内の漁業者に多大な損害を与え、豊かな海には、波が荒立った。それまで操業できた対馬沖の好漁場から締め出され、入れば拿捕。乗組員は韓国で罪人として扱われた。船などは没収。家族の生活も一変した。かなぎ漁が盛んだった竹島(韓国名・独島)周辺にも、近づけなくなった。荒波にのまれた漁業関係者や、かつて竹島で漁をした漁師たちの思いをつづる。

八幡尚義さん(79)―隠岐の島町久見―


竹島のある北西方向を指さす八幡尚義さん=久見漁港
豊かな漁業資源もう1度この手で
 八幡尚義さんは、竹島で漁をした経験を持つ数少ない生存者だ。半世紀以上前に、たった1度渡っただけだが、漁業資源の豊富な竹島への思いは尽きず、脳裏に刻まれた日本海の孤島での漁を「できればもう1度」と願う。
 八幡さんが竹島で漁をしたのは、1954年5月。その2年前に韓国が一方的に設けた李承晩ラインにより、日本側が竹島で行政権、漁業権を行使できない中、島根県の要請で当時の久見漁協関係者11人が海を渡り、漁をすることになったという。
 同島での漁の経験者2人を含む11人は、県の漁業取締船「島風」に、かなぎ漁用の小さな舟3隻を乗せ、暗闇の中、出港。巡視船5隻に守られながら、12-13時間で到着した。
 「思ったより小さい島」。初めて見る竹島の第一印象だった。代名詞であるアシカは14-15頭いた。島の周辺には、待ち構えているとの憶測もあった韓国の船の姿はなく、人影もなし。「怖いというより、早く漁をしてみたいという気持ちが強かった」
 西島には、同県が前年、海上保安庁と共同で調査した際に建てた「島根県穏地郡五箇村(現隠岐郡隠岐の島町)竹島」の標柱もあった。
 早速、西島と東島の間に舟を漕ぎ出し、挑んだワカメ漁は、海域の資源の「豊かさ」を実感させてくれた。「隠岐の倍近くの長さがあり、なんぼでも刈れた」と振り返るワカメが、わずか1、2時間で舟10杯分採れた。
 「戦前は相当採れたと聞いていた」アワビとサザエ漁は、いまひとつ振るわず、期待外れだったものの、翌日午後に福浦港へ帰ると、漁師仲間の歓迎を受け、質問攻めに。島民の竹島に対する熱い思いを再認識した。
 それから50数年。時のたつのは早い。竹島へ漁に行った11人中、既に9人が鬼籍に入り、生き証人は八幡さんを含め2人になった。
 「もう1度、行ってみたい。そのためにも、領土問題を1日でも早く解決してほしい」。竹島へとつながる日本海を眺めながら、言葉に力を込めた。



八幡昭三さん(77)―隠岐の島町久見―



隠岐郷土館に残る八幡伊三郎さんが描いた竹島の図
 石材加工業、八幡昭三さんの家には、竹島を描いた小さな地図が大切に保管されている。図上には、ワカメやアワビの採れるポイントを記入。同島の「好漁場」ぶりをうかがわせる。
 昭三さんによると、地図の作者はかなぎ漁の名人と言われた叔父の八幡伊三郎さん(1988年に92歳で死去)。竹島には、34年から38年にかけ、漁のために春と秋に計9回渡った。1回に40日間ほど滞在し、採ったアワビは、中国への輸出用として干した。アワビやサザエの収穫量は、多い日で750キロになったという。
 地図は、伊三郎さんが親せきの求めに応じ、80年ごろに昔を思い出しながらボールペンで便せんに描き、後に昭三さんが譲り受けた。西島と東島の間に、ワカメの刈り場やアワビの漁場、東島には日露戦争当時の日本の監視所の位置などが記されている。
 伊三郎さんは、このほかにも地図を描いているが、現存しているのは隠岐郷土館に残る1枚などわずか。それだけに、手元に残る小さな地図は竹島の様子はもちろん、伊三郎さんの足跡を知る上でも、かけがえのない貴重な資料だ。昭三さんは「地図は日本の領土として、竹島で隠岐の漁師が漁をしていた証。大切に伝えたい」と思い入れたっぷりに話す。



橋野敬之助さん(77)―浜田市元浜町―


 あと10日ほどで、新年を迎える1954年12月21日夜。対馬沖で操業中の底引き網漁船に機関長として乗っていた橋野敬之助さんの耳に突然、威圧的な声がとどろいた。「外に出てきたら撃つぞ」。流ちょうな日本語だったが、ただならぬ事態であることは、いやが上にも分かった。視線の先には、韓国・海洋警察隊の警備艇から乗り移ってきた警察官が、こちらに向けて構える銃があった。拿捕された瞬間だった。
 橋野さんが乗っていた浜田の漁船「第3平安丸」(10人乗り組み)は、主船の「第5平安丸」とタラ漁の網を引き揚げる最中。約1カ月前、浜田の漁船が島根県内で初めて拿捕され「気を付けていたが、この時は油断し、明かりをつけたまま操業していた。まさか捕まるとは思ってもみなかった」という。第5平安丸は逃げて無事だった。
 釜山に連行された後は、警察官の監視の中、船中で1泊し、海洋警察隊の拘置所での1週間を経て刑務所へ。乗船者のうち、1人いた未成年者こそすぐに帰されたものの、裁判の結果は、船長が禁固1年、機関長と甲板長が同10カ月、船員が同8カ月の実刑だった。
 刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。「6畳の板の間に30人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから、1日中部屋にいなければならず、つらかった」。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗末。30人がおけ1杯の水で、1日を過ごさなければならないのもこたえた。
 刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷に帰れず、釜山の外国人収容所へ移送。刑務所に比べ、制約は緩やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。見えない行く末が不安を増幅させた。
 そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒やした。
 帰国が許されたのは58年1月。船で下関に向かう途中、迎えに来た巡視船のスピーカーから流れた「皆さん長い間ご苦労さまでした」という言葉が、凍てつくような寒さを和らげた。「帰ってこられたという実感がわき、涙が止まらなかった」。そして、念願の家族との3年ぶりの再開を果たした。
 「悪夢」を味わった海―。だが、橋野さんが再び船に乗り込み、対馬沖へとへさきを向けるまで、時間はかからなかった。船所有会社の出資者の1人でもあった。「漁師というのは、魚が豊富にいると、どうしてもそこへ行きたくなる。それに、日本として李承晩ラインを認めていなかったし…。しかし、正直に言って、また拿捕されるのではないかと、常に不安が頭にあった」
 船を下り、約20年の歳月が流れた今も、拿捕、拘置された苦しみの日々を忘れることはできない。「収容されていた3年余りは、本当に無駄な時間を費やした」―。



浜村幸雄さん(82)―浜田市高田町―

 1956年4月に、(所有する)「第2浜富丸」とカレイ類を獲っていた「第6浜富丸」(12人乗り組み)が拿捕された。李承晩ラインを越えていたかどうか分からないが、(船員らは)帰してもらうために認めるしかなかった。
 あるうま味調味料が、韓国でお金に換えることができるというので、収容所にいる船員の元にせっせと送った。全員がようやく、無事に帰国したのは2年後だった。帰ってきた姿を見たときには、本当にほっとした。
 拿捕保険に入っていたので、船員たちの家族には、それまでと同様に給与を出した。しかし、家族は早期解放を求めて国などへ陳情に回るなど、いろいろな面で大変な思いをした。


フォトしまね2006年161号
INDEX「竹島の日」に寄せて〜澄田信義知事竹島とは―
日韓両国の主張: 論点整理 序章論点整理 古代から近世へ論点整理 近世から近代へ論点整理 近代から現代へ
写真で見る「竹島の記憶」竹島問題研究会・下條正男座長に聞く比較/日韓両国の教科書漁業を取り巻く諸問題
漁業関係者インタビュー「証言」〜関係者の思い「受け継がれる絆」〜交流にかける県民の声島根県と朝鮮半島の交流の歩み
竹島・北方領土返還要求運動・島根県民会議のメッセージ関係書籍の紹介日韓親善物語、意見募集「大日本海陸全図」