1868年。明治政府の樹立で、日本は近代国家として歩み始める。そこで浮上したのが、主権の根幹をなす領土の画定。その必要に迫られた政府が取った政策の1つが、竹島(韓国名・独島)を日本領に編入した1905年1月28日の閣議決定であり、2月22日付の島根県告示第40号だ。
 直接的なきっかけは、隠岐島在住の中井養三郎が04年9月29日、内務、外務、農商務省に求めた竹島の領土編入と貸し下げの願い出だった。中井は03年5月に、竹島でアシカ漁を開始。だが、間もなく過当競争による乱獲の弊害が出始めた上、領有権の不明確さによって、他国とのトラブルなど、不測の事態を招く恐れもあった。
 願い出を受け、明治政府は、竹島を他国が占領したと認められる形跡がない点を確認。さらに、中井の漁業会社が同島に小屋を構えていることをもって、国際法上の占領の事実とした。この2つの点から「しゅせんせん」の地であると判断し、領土編入に踏み切った。
 その後、島根県は県告示後の06年3月、松永武吉知事の命令で県調査団を竹島に派遣する。同行した奥原碧雲が記した「竹島及鬱陵島」所収の竹島渡航日誌によると、一行は精力的に視察、調査を行っている。

 ■竹島の領有権確立までに曲折
 ただ、1905年の竹島の領有権確立までには曲折があった。1870年に、朝鮮視察から帰国した外務省の佐田白茅は「竹島松島朝鮮附属ニ相成あいなりそうろう始末」という表題の報告を行う。竹島(現在の鬱陵島)だけでなく、松島(現在の竹島)も、朝鮮領になったというわけだ。

鬱陵島の東側約2キロの海上にある竹嶼(韓国名・竹島)。韓国側の文献・史料、地図などから考えると、于山島は現在の竹島(韓国名・独島)ではなく、この竹嶼である可能性が高い
 そして、地籍編さんのため、内務省から76年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会を受けた島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領ではないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。
 島名も混乱した。例えば、鬱陵島について、一時、内務省は竹島、外務省は松島と別々の呼称を使用した。鬱陵島は江戸時代から竹島と呼ばれてきたが、長崎の出島のオランダ商館付きの医師として来日し、医学をはじめ、日本での洋学の発展に貢献したシーボルトが欧米に伝えた日本地図で、鬱陵島を松島と記したのが原因だった。
 一連の騒動の背景の1つには、鎖国政策を敷き、約260年間続いた江戸幕府が倒れ、明治維新という激動を経たことによる外交の混乱があるとみられる。江戸時代に日朝外交を担った対馬藩が長崎県に編入。1690年代の鬱陵島をめぐる交渉の経緯や帰属先が、一時的に不明確になってしまった。
 そういった事態を収拾するため、外務卿の寺島宗則が1880年に鬱陵島の現地調査を命じ、軍艦あまを派遣。調査の経緯を著した北澤正誠の「竹島考証」によると、明治政府に対して「松島は鬱陵島」と報告し、朝鮮領であることを確認した。

竹島の島根県への編入を伝える山陰新聞(現・山陰中央新報)の1905 年2月24日付の記事
 ここで問題となるのが、北澤が鬱陵島の(調査の基点とした場所から見て)北側にある小島を指し、鬱陵島とともに朝鮮領の「竹島」との結論を下した事実である。
 だが、その島は現在の竹島とは異なる。なぜなら、現在の竹島は鬱陵島の東南にある。位置関係から見て、北澤の言う竹島は、鬱陵島から約2キロ離れた海上にある竹嶼(韓国名・竹島)と考えるのが妥当だ。

 ■「石島」は「独島」か
 これに対し、韓国側は明治政府の閣議決定や島根県告示が行われた5年前の1900年10月25日、大韓帝国政府が出した「勅令第41号」によって、日本より一足早く、現在の竹島の領有権を確立したと説く。勅令は、鬱陵島を欝島郡に昇格し、郡守の常駐を決めた上で、その行政区域を「欝陵島と竹島、石島」と定める内容だった。
 韓国側は、その石島こそ、今の独島だと主張する。「石」と「独」の発音が似ているとの理由だ。だが、かつて于山島と呼ばれた島が現在の竹島であるとともに、石島も、独島もまた、同じ島であると特定するには、さまざまな疑問を解消しなければならない。竹島問題研究会で、15世紀から20世紀初めの韓国の古地図約60点を分析したところ、17世紀までは、于山島を鬱陵島であるとしたり、現在の竹島の位置とは反対方向の鬱陵島西側の朝鮮半島との間に描いたケースが多数あった。
 18世紀以降になると、于山島を鬱陵島の東側に置いてはいるが、同島のすぐ近くに描いている。その表現は、勅令第41号の発令と同時期に大韓帝国で刊行された「大韓輿地図」(1898年)や「大韓全図」(1899年)でも、変わらない。
 さらに、「朝鮮現勢便覧(1935年版)」などでは、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。それは、韓国が李承晩ラインを引く際、意見を求めた歴史学者・崔南善の著書「朝鮮常識問答」(1948年初版)でも、同様だ。
 一方、現在、日本で竹島、韓国で独島と呼ぶ島は「東経131度52分」にあり、経度が大きく食い違う。ところが、同じ「朝鮮常識問答」でも、後年の版で示された領土の東限を見ると、経度は初版の際のままにもかかわらず、地名だけが「慶尚北道鬱陵島」と修正されている。
 1882年に朝鮮の国王・高宗から、長らく「空島政策」を取った影で分からなくなった鬱陵島の実態調査を命じられた李奎遠の報告や地図でも、現在の竹島は出てこない。高宗が関心を寄せた松竹島と于山島について、李奎遠は鬱陵島近くの小島だと復命した。
 また、現在の竹島は勅令第41号が出された1900年当時、日韓両国でリアンクール島やリャンコ島などと呼ばれており、石島、独島との呼称は使われていない。鬱陵島の郡への昇格を進言した禹用鼎も、同島を一周しただけで、現在の竹島には行っていないことが分かっている。

 ■「于山島は竹嶼」が自然な見方
 以上の点を総合すると、勅令第41号の石島大韓全図や大韓輿地図などに描かれた于山島、李奎遠の報告した于山島領土の東限とされた竹島―はいずれも、北澤正誠が鬱陵島近くの小島と記した現在の竹嶼であると理解するのが、自然だ。韓国側の古地図の「海東地図」や「朝鮮輿誌」などで、鬱陵島の横に描かれた「所謂いわゆる于山島」も、竹嶼を指す。
 韓国側は、1905年の明治政府による竹島の領土編入は、10年の日韓併合に至る過程の中で行われたとし、「侵略の第一歩」とする。だが、その歴史認識の前提条件である勅令第41号の石島が、現在の竹島、独島であるとする説は立証されておらず、検証を要する。

竹島関係年表
江戸
1840年   シーボルトが「日本図」を刊行。当時竹島と呼ばれた現在の鬱陵島を松島と記す
1849年   フランスの捕鯨船・リアンクール号が現在の竹島を見つける
1853年 6月 米国・ペリーが浦賀に来航
1854年 10月 松浦武四郎が「竹島雑誌」を記す
1867年 10月 江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出る
明治
1870年   外務省の佐田白茅が朝鮮視察から帰国し、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」と題する報告を行う
1871年 7月 日本政府が廃藩置県を行う
1876年 2月 日朝修好条規を締結
  7月 武藤平学が外務省に「松島(現在の鬱陵島)開拓之議」を建議
1877年   竹島(現在の鬱陵島)の帰属先について、内務省が判断を仰いだ太政官が同島と外一島は、日本領ではないとの認識を示す
1880年 7月 外務卿・寺島宗則が鬱陵島を調査するため、軍艦天城を派遣
1881年 5月 鬱陵島を巡察していた朝鮮政府の役人が、無断で木材を伐採する日本人の存在を確認し、報告
1882年 4月 朝鮮の国王・高宗の命令で、李奎遠が鬱陵島の調査を開始。終了後、「鬱陵島内図」や「鬱陵島外図」などを提出
  6月 朝鮮王朝が鬱陵島の空島政策を止め、開拓するために植民政策が提案される
  9月 朝鮮王朝が日本政府に対し、鬱陵島への日本人の越境を抗議
1883年 3月 日本政府が鬱陵島への渡海を禁止
  9月 日本政府が鬱陵島から日本人254人を連れ戻す
1894年 8月 日清戦争が始まる。95年まで
1897年   朝鮮王朝が国号を大韓帝国に改称
1898年   大韓帝国・学部編輯局が「大韓輿地図」を刊行
1899年   大韓帝国・学部編輯局が「大韓全図」を刊行
1900年 10月 大韓帝国政府が「勅令第41号」を発布。鬱陵島を欝島郡に昇格し、郡守の常駐を決めた上で、同郡の行政区域を鬱陵島と竹島、石島とする(25日)
1903年 5月 隠岐島の中井養三郎が現在の竹島でアシカ漁を始める
1904年 2月 日露戦争が始まる。05年まで
  8月 第1次日韓協約締結
  9月 現在の竹島について、日本の軍艦新高の日誌に、韓国人は独島と書き、日本の漁民はリアンコ島と呼ぶと記される(25日)
  9月 中井養三郎がリャンコ島(現在の竹島)の領土編入と貸し下げを、内務、外務、農商務省に願い出る(29日)
1905年 1月 日本政府が閣議決定で、竹島を日本領土に編入(28日)
  2月 「島根県告示第40号」により、竹島の島根県編入を公示(22日)
  11月 第2次日韓協約(韓国保護条約)締結
1906年 3月 島根県知事・松永武吉の命令を受け、県調査団が竹島へ出発。竹島を踏査後、天候が悪化したため、鬱陵島に避難し、欝島郡守・沈興澤を表敬訪問。翌日、沈は大韓帝国の中央政府に「独島が日本領土になった」と報告
1907年 7月 第3次日韓協約締結
1910年 8月 日本政府が韓国併合
 



フォトしまね2006年161号
INDEX「竹島の日」に寄せて〜澄田信義知事竹島とは―
日韓両国の主張: 論点整理 序章論点整理 古代から近世へ論点整理 近世から近代へ論点整理 近代から現代へ
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漁業関係者インタビュー「証言」〜関係者の思い「受け継がれる絆」〜交流にかける県民の声島根県と朝鮮半島の交流の歩み
竹島・北方領土返還要求運動・島根県民会議のメッセージ関係書籍の紹介日韓親善物語、意見募集「大日本海陸全図」