竹島(韓国名・独島)の領有権問題の来歴を振り返る時、どうしても避けて通れない1人の朝鮮人がいる。その名は、安龍福―。韓国側では、日本側に鬱陵島と竹島を朝鮮領と認めさせた「英雄」。対する日本側では、後に領有権問題を複雑化させる一因となった「偽証」の多い人物との見方がある。相反する評価は、同島をめぐる両国の主張、見解の大きな隔たりと深くかかわる。

 ■鬱陵島の帰属先が論争の発端
 安龍福が歴史に登場するのは、江戸時代前半の1690年代。舞台は、竹島の西北約90キロにある鬱陵島で幕を開けた。同島はかつて于山国と称し、512年に新羅に帰属。高麗、朝鮮へと引き継がれたが、朝鮮半島を襲う倭寇の巣くつになるのを恐れた朝鮮王朝が1417年、入島・居住を全面禁止する「空島政策」を取った。
 一方、日本では、鬱陵島を竹島と呼んだ。米子の商人・大谷甚吉が1600年代初め、鳥取藩に渡海を願い出て、江戸幕府が大谷家と同じく米子の村川家に限って許可。両家はアワビやワカメなどを採るため、年交代で同島に渡るようになった。大谷甚吉のはいには「竹島渡海開基」とある。
 一見、平穏だった同島に、異変が起こるのは1692年。鳥取藩士・岡島正義の「竹島考」や米子の大谷九右衛門の「竹嶋渡海由来記抜書控」によると、同年3月末、年番だった村川家の船が近付くと、多くのアワビが干され、漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡があった。
 そうこうするうち、朝鮮の漁民と遭遇。村川家の船頭は、同島は日本の領土であり、2度と渡らないよう、申し伝え、権益が荒らされた証拠として、朝鮮の漁民たちがつくった干しアワビや味噌麹などを持ち帰った。
 そして、1年後の93年。安龍福との運命的な出会いが訪れる。大谷家の船頭たちが前年の村川家に続き、鬱陵島で漁をする朝鮮人を発見。その中にいたのが、安龍福と朴於屯という人物だった。強い警告を発したのに、再び朝鮮人と遭遇したことに強い危機感を持った大谷家の船頭は、2人を隠岐島経由で米子に連れ帰り、鳥取藩に訴えることにした。
 鳥取藩から裁定を求められた江戸幕府は同藩に対し、2人に鬱陵島に渡らないよう厳命した上で、長崎への移送を指示。日本側の朝鮮外交の窓口だった対馬藩が2人を引き継ぎ、藩主・宗義倫の書簡で、同島への渡海禁止の周知、徹底を朝鮮王朝に強く求めた。同王朝も、2人を「罪人」として、厳しく罰する方針を示した。
 しかし、朝鮮王朝と対馬藩は互いに、鬱陵島が自国領と譲らず、折衝は難航。朝鮮王朝内の政権交代で、当初は融和策だった対日外交の姿勢が強硬策に転じたことも、問題を複雑化させた。

昨年5月に海士町の旧家・村上家で見つかった安龍福の供述を記した古文書の一部。「竹嶋(現在の鬱陵島)」「松嶋(現在の竹島)」「安龍福」の文字が読める
 対する対馬藩でも、藩主の義倫が病没する不測の事態が発生。朝鮮側が示した文献を基に、藩内に鬱陵島は朝鮮領とする声が台頭した。そこで、同藩は95年10月、新藩主の襲名と参勤交代を機に、幕府に鬱陵島は朝鮮領とし、交渉の打ち切りを打診。幕府は96年1月28日付で、鳥取藩に鬱陵島への渡海禁止令を発し、対馬藩に同方針の朝鮮王朝への伝達を命じた。
 ただ、事態は収拾するどころか、思わぬ方向に展開し、混迷の度を深める。原因は96年5月、隠岐島に突如、再び姿を現した安龍福の言動だった。これにより、鬱陵島の帰属先をめぐる論争が、現在の竹島の領有権問題に飛び火する。
 海士町の旧家・村上家で昨春見つかった古文書によると、安龍福は鬱陵島と、当時松島と呼んだ現在の竹島を朝鮮領とし、鳥取藩に認めてもらうよう訴訟するのが再来日の狙いと説明。同藩に追放され、帰国後に取り調べを受けた安龍福は、粛宗実録によれば「松島は即ち于山島、此れ亦我が国の地」(松島は于山島で、朝鮮領だ)との訴えを、日本側も認めたと供述した。


鳥取藩が1724年4月、幕府へ提出した「竹嶋之図」。竹島(現在の鬱陵島)や松島(現在の竹島)が描かれている(鳥取県立博物館所蔵)
 ■矛盾、偽りはらむ証言
 だが、証言は、矛盾や偽りをはらむ。まず、隠岐島へ来る前、鬱陵島で多くの日本人を見つけて「領土侵犯」としかったとするが、既に江戸幕府は同島への渡海を禁じており、遭遇は考えにくい。鳥取藩主と対面し、鬱陵島と現在の竹島は朝鮮領とした将軍家の書き付けを対馬藩主が奪ったとし、それを幕府に抗議すると言うと、同藩主の父親が来て中止を懇願したという話も疑わしい。
 なぜなら、当時、鳥取藩主は参勤交代で、国元には不在。また、対馬藩主・宗義倫が2年前に病没したため、父親の宗義真は新藩主の後見人として、江戸滞在中で、両者ともに安龍福と会いようがない。1度目の来日の際も、安龍福は鬱陵島へ渡った目的を「官命でアワビを採りに来た」と言ったかと思えば、「アワビやワカメを採って稼ぐため」と発言。帰国後は「嵐に遭い、漂着した」と変えるなど、供述が二転三転している。
 ところが、朝鮮では「粛宗実録」(1728年編さん)に収められた安龍福の証言が独り歩きし、空島政策を破った「罪人」が「英雄」として扱われるようになる。その大きな原因は、朝鮮で1770年に編さんされた「東国文献備考」の「輿地考」の解釈にある。
 韓国側は、そこにある「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則すなわち倭の所謂いわゆる松島(現在の竹島)なり」との記述を盾に、より以前の15世紀の「世宗実録地理志」や「東国輿地勝覧」といった文献の中から、「于山島」の名称を探し出しては、現在の竹島と于山島が同じ島であるとし、自国領になった起源の古さと、その正当性を強調する。
 その結果、最終的には、于山国が新羅に編入された512年から、現在の竹島は自国領だったと主張する。

 ■首ひねる「于山島=竹島」説
 確かに、東国文献備考の輿地考に引用され、安証言の約40年前の1656年にできた輿地志に「于山島が松島だ」と書いてあれば、韓国側の論は成り立つ。だが、輿地志は現存せず、確認できない。その上、東国文献備考自体、編集のずさんさが当時から指摘され、疑問点が多い安龍福の証言に基づく別の文献を参考にした形跡もある。
 また、于山島の名が最初に登場する「たいそう実録」(1431年編さん)には、1417年に同島に人が住んでいたとある。韓国側が現在の竹島と同じ島とする三峯島の傍らには、小島が存在し、そこにも1474年に2家族が住んでいたとする。だが、今、竹島と呼ぶ島に人が住むのは難しく、于山島と同じ島か、疑問を抱かざるを得ない。
 一方、日本側の主張、見解も究明が必要な課題を抱える。その1つが、鬱陵島と現在の竹島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に、両島が同藩に属さないとした1695年12月25日付の回答だ。現在の竹島が当時、同藩に属さないと考えられていたとしても、日本領との認識がなかったとは言えず、ましてや朝鮮領とする証明にはならないが、今後検証を深めたい。

竹島関係年表
512年   于山国が新羅に属する(「三国史記」による)
室町
1417年 2月 朝鮮王朝が鬱陵島への入島・居住を禁じる「空島政策」を開始
1431年   朝鮮・「太宗実録」を編さん
1454年   朝鮮・「世宗実録地理志」を編さん
1481年   朝鮮・「東国輿地勝覧」を編さん
戦国
1592年   豊臣秀吉が朝鮮に出兵。文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)が始まる。98年まで
江戸
1603年   徳川家康が江戸幕府を開く
1617年   池田光政が鳥取藩(因幡・伯耆)に入府
    米子の大谷甚吉が鳥取藩に鬱陵島への渡海を願い出る
1618年   鬱陵島への渡海について、江戸幕府が米子の大谷、村川両家に限って許可(※1625年との説も)
1656年   朝鮮・柳馨遠が「輿地志」を編さん
1666年   大谷家の船が鬱陵島からの帰路に遭難し、朝鮮半島に漂着
1667年   松江藩士・齋藤豊仙が「隠州視聴合記」を著す
1688年   隠岐国が松江藩預地から石見銀山の代官の管轄地となる。1720年まで
1692年 3月 米子の村川家の船頭たちが鬱陵島で朝鮮の漁民と遭遇
1693年 4月 米子の大谷家の船頭たちが鬱陵島で朝鮮の漁民と遭遇。安龍福と朴於屯の2人を、隠岐島を経て、鳥取藩に連れ帰る
  6月 安、朴を対馬藩に引き渡すため、鳥取藩の一行が長崎に向けて出発
  11月 対馬藩が安、朴を朝鮮に送還
  11月 鬱陵島の帰属をめぐる対馬藩と朝鮮王朝の交渉が開始
1694年   朴於屯の家族が朝鮮王朝に、日本人に拉致され、鳥取藩へ連行されたと訴え出る
1695年 12月 鬱陵島と現在の竹島が帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に対し、鳥取藩が同藩に属さないと回答
1696年 1月 対馬藩の申し出を受け、江戸幕府が鳥取藩に対し、鬱陵島への渡海禁止を伝える(28日)
  5月 鬱陵島と于山島の帰属問題で、鳥取藩に訴訟を起こすためとし、安龍福らが隠岐島に出現
  6月 安らが鳥取藩の赤碕灘に姿を現し、その後、鳥取城下に移される
  8月 鳥取藩から追放された安らが朝鮮に帰還
  10月 対馬藩を訪れていた朝鮮王朝の役人に、江戸幕府の鬱陵島への渡海禁止措置が伝えられる
1697年 1月 朝鮮王朝の役人が帰国し、江戸幕府の渡海禁止措置を報告
  3月 安の処罰が決定。死罪を免れて流刑に
1726年   対馬藩が「竹嶋紀事」の編さんを命じる
1728年   朝鮮・「粛宗実録」を編さん
1746年   朝鮮・李孟休が「鬱陵島争界」(春官志所収)を編さん
1770年   朝鮮・申景濬らが「東国文献備考・輿地考」を編さん
1779年   長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」が刊行される
1781年   朝鮮・「英祖実録」を編さん
1785年   林子平が「三国通覧輿地路程全図」を作製
1801年   大社の矢田高当が「長生竹島記」を著し、現在の竹島を「隠岐国松島」と記す
1821年   伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成
1828年   鳥取藩士・岡島正義が「竹島考」を記す
1831年   朝鮮・「鬱陵島地図」が作製される
 



フォトしまね2006年161号
INDEX「竹島の日」に寄せて〜澄田信義知事竹島とは―
日韓両国の主張: 論点整理 序章論点整理 古代から近世へ論点整理 近世から近代へ論点整理 近代から現代へ
写真で見る「竹島の記憶」竹島問題研究会・下條正男座長に聞く比較/日韓両国の教科書漁業を取り巻く諸問題
漁業関係者インタビュー「証言」〜関係者の思い「受け継がれる絆」〜交流にかける県民の声島根県と朝鮮半島の交流の歩み
竹島・北方領土返還要求運動・島根県民会議のメッセージ関係書籍の紹介日韓親善物語、意見募集「大日本海陸全図」