銀が運ばれた銀山街道(温泉津町)
銀が運ばれた銀山街道(温泉津町)
銀山をめぐる攻防
 仙ノ山から谷を隔てた北西側に要害山(標高414メートル)があります。山頂に山吹城が築かれ、銀山の争奪をめぐる激しい攻防戦が繰り広げられました。大内義興(よしおき)が銀山の基礎を築いた後、小笠原長隆、尼子(あまご)晴久、毛利元就(もとなり)など銀山の主が目まぐるしく交代しました。
 戦国時代、武将は軍事に予算をそそぎ込みました。石見銀山は戦国武将にどれほどの富をもたらしたのでしょう。毛利元就は、慶長4年(1599)銀の採掘や支配地で消費される酒や炭などさまざまな物に税を課し、年間約3万枚の銀を得ていました。現代の価格に換算すると、約83億円にも上ります。これはあくまで毛利氏が得た金額で、銀山全体が地域にもたらした富は不明ですが、膨大な額だったに違いありません。戦国武将が争奪戦に血眼になったのもうなずけます。
鞆ケ浦
鞆ケ浦
海を渡った石見銀
石見銀山が記された「日本図」
石見銀山が記された「日本図」
 石見銀山に導入された灰吹法は、佐渡をはじめ生野銀山(兵庫)、半田銀山(福島)、院内(いんない)銀山(秋田)などにも拡大。石見銀山ではぐくまれた技術が各地に広まった結果、日本は世界有数の銀産出国となりました。
 一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算があります。江戸初期の17世紀初め、日本から※6輸出された銀は年間約150〜190トンに上るのです。当時、世界全体の銀の産出量は約600トン。照合すれば、日本銀が実に世界の銀の3分の1を占めていたのです。同時期の石見銀山の推定年間産出量は約40トンで、石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていました。石見銀山は、今も残る「佐摩」の地名から戦国時代、佐摩銀山とも呼ばれていました。当時の外国の文献に登場する日本銀のうち「SOMA(ソーマ)銀」が石見銀とみられます。
 銀山の最盛期は、世界史でいう大航海時代に当たります。戦国時代後期の永禄11年(1568)、ポルトガル人の地図製作者ドラードが、インドで作った「日本図」に、石見をポルトガル語で「銀鉱山王国」と記しています。地図は、軍事と貿易の面からポルトガルの国家機密でした。石見銀山は、灰吹法の導入からわずか35年後に、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見 銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることができます。
 石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではありません。人々の往来により、海外から漆喰(しっくい)の技術や瓦の製法、算術など驚くほど多様な情報や文物が伝わり、江戸時代の庶民生活を豊かにしたのです。

石見銀山遺跡周辺図 再び輝く日へ向けて
 島根県は、平成8年から地元市町とともに石見銀山の世界遺産登録をめざす総合調査に取り組み、今春、教育委員会に世界遺産登録推進室を設置。大田市も石見銀山課を立ち上げました。仙ノ山の石銀や本谷などは、まだ一般の方々が訪れることは難しいですが、将来に向け多くの人々が足を運べるよう調査、整備していきます。国内はもとより海外の方々にも、往事の一大銀産出国・日本を築き上げた石見銀山の人と技術の素晴らしさが伝えられるよう、取り組みを進めていきます。

大森町の店先
大森町の店先

仙ノ山中腹からみた大森町集落
仙ノ山中腹からみた
大森町集落

石見銀山遺跡中心部 写真「御取納丁銀」
石見銀で造られた銀貨「御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)」


■注釈

※6[輸出銀]日本の銀は、大量に九州から朝鮮半島や中国に運び出され、ヨーロッパの中でもいち早くアジアに進出したポルトガルによって世界貿易で使われた。ポルトガル船は東アジアに来て、中国の生糸や絹織物を日本に輸出し、その代金として日本銀を受け取っていた。



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