日露戦争のさなか、ロシアの特務艦「イルティッシュ号」は、
砲撃を受け北上中、江津市の和木真島(わきましま)沖にて沈没する。
それを真っ先に発見した少年弥吉は、一生涯「自分の船だ」という思いを胸に焼きつけ、
「イ号」の思い出とともに行き続ける。
隣町である温泉津(ゆのつ)町出身の作者が、子供の頃に聞いた実話を思い出し、
当時を知る江津市の古老たちの話をまとめて作り上げた作品。
弥吉の母が、ロシア将校にもらったバターを傷薬と間違えて使ったり、
ロシア兵の差し出した氷砂糖を毒だと思い投げ捨てるシーンなど、
当時の外国との文化の違いがリアリティ豊かに描かれている。



イルティッシュ号の来た日
◎難波利三著 ◎文藝春秋
プロフィール
難波 利三(なんば としぞう)
昭和11年生まれ。島根県出身。昭和59年『てんのじ村』で第91回直木賞受賞。主な受賞作に、第40回オール讀物新人賞(昭和47年)『地虫』などがある。庶民の生きざまや、故郷である山陰地方の風土や歴史を題材に多くの作品を発表している。他の作品に、『雑魚の棲む路地』『天を突く喇叭』『大阪希望館』などがある。
 「ロシア将校の泊まることになった旧家は、弥吉の家のすぐ近くである。浜の藁葺屋根の中に混じって、一軒だけが石州焼の赤瓦の大屋根を、白壁の塀の上にのぞかせている。」
 日露戦争当時、敵対国ロシアの誇るバルチック艦隊の特務艦であった「イルティッシュ号」。そのイルティッシュ号が、日本海海戦で砲撃を受け沈没。生き残った235名のロシア兵は、島根県那賀郡都濃村和木(現・江津市和木町)の浜に6隻の大型ボートで投降し、和木の人々の手厚い保護を受けることになった…。冒頭の抜粋部分は、将校たちを受け入れた網元の家へと向かうシーンだが、当時、有力者の証でもあった石州(せきしゅう)瓦の独特な赤色が目に浮かぶような語り口である。この石州瓦、県東部雲州(うんしゅう)地方の来待石(きまちいし)から採取される釉薬を使うことで朱色に近い特徴的な赤瓦に仕上がるもので、山陰はもちろんのこと、北前船の時代から全国に広まっていった。石州瓦を作る石見地方は瓦の日本三大産地の一つとして、現在は全国第2位の生産量を誇っている。

 「その翌年から、イルティッシュ号が漂着した五月二十八日には、浜の老若男女が小学校へ集う慣わしが生まれた。有り合わせの酒肴を持ち寄り、一日、ロシア兵達のことを偲んび合う。(中略)それは和木の浜の年中行事となり、ロシア祭りと名付けて、親しむようになった。」
 救助された翌日、ロシア兵たちは浜田まで護送されていった。そして、人々の記憶から次第にその日のことが消えようとしていた一年後、ロシア兵たちを思い出し酒を酌み交わす行事が始まった。その後も和木地区ではロシア祭りが続いていったが、戦争の影響などで何度か中断され、最近になって和木公民館が主催してロシア祭りが復活した。
 事件ののち、イルティッシュ号が金塊を積んでいたことが分かり、明治39年から昭和34年まで幾度となく引き揚げ作業が行われた。そのときに引き揚げられた航海灯などのイルティッシュ号の備品や、その後も交流が続いたイルティッシュ号の乗組員たちとの思い出の品などが和木公民館に展示されており、当時、敵国同士であったロシアと日本の不思議な交流を垣間見ることができる。

今でもイルティッシュ号が沈む江津市和木真島沖
今でもイルティッシュ号が沈む江津市和木真島沖
和木公民館に展示保存されているロシア語の刻まれたイ号の航海灯(右)と照明器(左)
和木公民館に展示保存されているロシア語の刻まれたイ号の航海灯(右)と照明器(左)
和木の浜にある遭難したイ号乗組員の慰霊碑
和木の浜にある遭難したイ号乗組員の慰霊碑
イ号との思い出が数多く残る和木公民館
イ号との思い出が数多く残る和木公民館
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【特集】島根・物語の舞台
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