私 と 島 根
隠岐の思い出
 私が島根県を初めて訪れたのは、学生時代の頃のことです。同級生に隠岐(おき)出身の友人がいて、夏休みに彼の生家を訪れたのでした。東京生まれの私には故郷と呼べる地がなく、学友たちが次々に帰省する姿を見送るばかりでした。正直いって日本海に浮かぶ隠岐の島に誘われたときは、遠い外国へ出かけるような気分でした。まして、私は東京を離れたことがない少年時代を過ごしていましたので、隠岐は後醍醐(ごだいご)天皇が配流された場所という歴史の教科書を知るばかりで、当時の私は日本海すら見たことがなかったのです。
 東京から出雲大社行きの夜行列車に乗ってようやく着いた松江の町は東京育ちの私にとって、なんという落ち着いた美しさだったことでしょうか。市内を歩きまわったあとで、松江大橋の欄干によりかかり宍道湖の夕景に心をうばわれていたところ、お年寄りが「旅のお方か」と声をかけて下さったのでした。
 その夜は大社の駅でベンチに寝たのです。あの頃の学生にとっては無銭旅行ということが一種のあこがれでしたので、迷うことなく駅に泊まりました。当時の国鉄の駅は立派なホテルだったのです。駅には何人かのごろ寝の旅人が夜を過ごしていましたが、椅子を挟んで横になっていると、おみくじ売りの山雀が、籠の中で一晩中止まり木の上をチャッチャッと動きまわり、私はとうとう一睡もできなかったのでした。
 隠岐の島へは境港から隠岐丸という連絡船に乗船して向かいました。友人の出身地は島前(どうぜん)の中ノ島(なかのしま)(現海士(あま)町)でした。当時、島には港の突堤がありませんでしたので、緑濃い島影に沖がかりした隠岐丸から小さな小舟に乗り換えて上陸したのです。高橋という彼の生家は屋号が「中原」と呼ばれ、豊かな水田に囲まれていました。島での10日間の暮らしは、都会しか知らなかった青年にとって感動の日々といってもよかったと思います。島の娘さんたちと海に潜って採ったサザエの磯料理や、友人の母が作ってくれた心尽くしの手料理に、私は東京の暮らしを忘れてしまいました。
 島を去る日は霧の濃い日でした。友人の母が夕げの席で「忘れしゃんすな西郷(さいごう)の港・・・」と隠岐民謡(しげさ節)を歌って別れを惜しんでくれました。とっぷりと暮れた島影を隠岐丸が汽笛を鳴らしながらライトを点して現れ、夜霧の中に停泊します。浜辺に揺れる「中原」の紋入り提灯の火が小さくなるのを、私は小舟の上で涙ににじむ目で見ていたのです。あの日から50年経とうとしています。もう一度行きたいと思いつつ、隠岐は私にとって遠いものになってしまいました。
菱浦港の北東部に浮かぶ三郎岩(海士町)
菱浦港の北東部に浮かぶ三郎岩(海士町)
中島誠之助
◆中島 誠之助
なかじま せいのすけ●古美術商・エッセイスト。1938年生まれ。日本大学卒業。「からくさ」の屋号で鑑定歴40年、青山にある“骨董通り”の名付け親。古伊万里磁器を世にひろめ「古伊万里の値を決める男」と呼ばれる。テレビ「開運!なんでも鑑定団」にレギュラー出演、鋭い鑑定眼と歯切れのよい江戸っ子トークでお茶の間の人気者に。「いい仕事してますね」の名文句で「96年ゆうもあ大賞」受賞。TV、CM、ラジオのほか、講演で全国各地をまわる。著書に「中国古陶磁入門・古伊万里染付入門」「鑑定の鉄人」「骨董屋からくさ主人」「暮らしの骨董入門・南青山骨董通り」「グルメ鑑定帳」など。

[ 中島 誠之助/ 岸 朝子 ]

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