今も当時の面影を残す大森町の町並み(大田市)
今も当時の面影を残す大森町の町並み(大田市)

都への道
〜島根の「道」の変遷〜

 歴史をひも解くと、道路網の整備は国の隆盛や人々の暮らしの中で重要な役割を果たしていたことがわかる。古代の大和朝廷時代、地方の統治は国造(くにのみやつこ)に任されていたが、7〜8世紀には中央集権国家の下に律令制が敷かれ、都と地方は連絡を密にする必要があったため、全国が「五畿七道」(畿内と7つのブロック)に分けられた。出雲(いずも)・隠岐(おき)・石見(いわみ)の三国は、丹波(たんば)・丹後(たんご)・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)の各国とともに“山陰道”に属し、地域間の新しい文化や物流の往来が始まっている。中世になると荘園・公領制が始まり、山陰地方の各地の荘園から荘園領主が住む京都まで直接年貢を納める必要があったため、美保関(みほのせき)・安来(やすぎ)・温泉津(ゆのつ)・浜田(はまだ)などの港から若狭小浜を経由した水路と陸路を組み合わせた輸送が主流になる。この頃は日朝貿易も盛んだったことから、日本海沿岸の港町が流通と経済活動の中心になっていく。そして近代。江戸幕府が整備した全国の主要都市を結ぶ五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)が整備されると、地方にも数多くの街道が派生し、人・物・文化の往還は飛躍的に発展した。山陰道は京都・丹波口を基点に因幡・伯耆を経て出雲・石見まで日本海に沿って進み、益田から山道をこえ周防の小郡で山陽道と合流する。また、銀山やたたら製鉄の繁栄や文化の往来とともに、当時の県内では地域の特色を生かした街道が数多く造り出されている。

嘉久志にある領界標柱(江津市)
嘉久志にある領界標柱(江津市)

万葉の道


 県西部に位置する江津−津和野間。現在は国道9号で結ばれ、その距離はおよそ111キロにおよぶ。万葉の道ができたのは、中世の頃にさかのぼる。津和野の吉見氏、周防山口の大内氏がそれぞれ本拠地を構えると、それらの城から石見の益田に向う道ができた。津和野藩・浜田藩にとって重要な道であり、それでいて警備が比較的にゆるやかだったことから多くの人たちが行き交っていた。万葉の歌人・柿本人麻呂ゆかりの地、益田をめざす歌人、僧侶、そして教育文化の仕事に携わる人たちの旅が盛んであったと伝えられている。
【江津(ごうつ)市】石見路の出発点。市内嘉久志(かくし)には、当時の「従是西浜田領」と記された領界標柱が戦後復元され、当時と同じ場所に立っている。また、旧跡「小川庭園」は室町時代の画聖・雪舟が小川家に寄宿した際に手を加えて築かれたものである。また、伊能忠敬も沿岸測量のときに、小川家に宿泊したと伝えられている。
【浜田(はまだ)市】平安時代の女流歌人・和泉式部伝説が色濃く残る場所。浜田藩・6万石の城下町で、城跡は小高い丘にあり、現在は桜の名所となっている。
【益田(ますだ)市】柿本人麻呂や雪舟ゆかりの地。益田市戸田で生まれた人麻呂が祀られている「高津柿本神社」、全国を放浪した雪舟が晩年を過ごしたとされる「大喜庵(たいきあん)」など、2人の足跡をしのぶ名跡がある。
【日原(にちはら)町】高津川を上下する水上交通の中心だったところ。代官所のあった青原などの宿場では、年貢米・紙などの物資が津和野や関西に運ばれる際の中継地として賑わった。
【津和野(つわの)町】山陰の小京都として名高い山間の里は、700年の伝統が息づく城下町だ。この地で生まれた文豪・森、西洋の哲学を紹介した西周らを輩出した「養老館」は、旧藩校として名高い。1415本の赤い鳥居が続く「太鼓谷稲成神社」は願いごとを成就する神様であることから、通常の稲荷ではなく、“稲成”という字をあてている。

太鼓谷稲成神社(津和野町)
太鼓谷稲成神社(津和野町)

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【特集】しまね道ものがたり
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