しまね夢紀行 島根の歴史・文化を語る。
佐原 真 対談

島根県出雲市出身。東京大学法学部卒。
和歌山県警察本部長、日本国有鉄道常務理事を経て、
昭和62年より現職。現在3期目。
すみた のぶよし・島根県知事

澄田信義


佐原 真
さはら まこと・国立歴史民俗博物館副館長
大阪府出身。昭和32年、京都大学大学院考古学博士課程修了。
同年、奈良国立文化財研究所に入り、土器、銅鐸、石器などの
遺物を中心に弥生文化の研究に成果を上げる。
平成5年、国立歴史民俗博物館副館長に就任。
主な著書は、『日本人の誕生』『斧の文化史』『食の考古学』
『祭りのカネ銅鐸』ほか。千葉県習志野市在住。
澄田信義


初めて見る出雲大社と山の不思議
知事 たびたび島根にお出かけいただき、ありがとうございます。最初においでになったのは、いつごろですか。
佐原 もう20年前です。10回は来ていますね。
知事 印象はいかがですか。
佐原 今日、初めて出雲大社や日御碕へ行きましてね。日本海、またウミネコを見て、初めて島根県の実像が分かったような気がしました。厳しい日本海と静かな宍道湖という、動と静の全然違うものを同時に持っているのが島根なんですね。そして、出雲大社で感動したのは、後ろに八雲山と弥山があることです。出雲大社の最初の段階は建物がなくて、山自身が御神体だったのではないでしょうか。
知事 出雲大社の社殿の高さは現在24メートル、その前には48メートル、さらにその前は96メートルだったということです。そういう見方もおもしろいですね。
佐原 358本の銅剣が出土した神庭荒神谷の場合も三方がふさがっていて、残る一方からちょうど仏経山が見えます。今日、仏経山から見下ろしてみると、神様にしてみたら、飛んで行くというよりは滑走でスーッと行くという感じですね。登ってみて、出雲の山には神様が降りる、宿るというのが分かる気がしました。


土の中から揺りかごへ入った銅鐸たち
知事 私は、昨年の10月、加茂岩倉で銅鐸が発見されたという第一報を県庁で聞き、翌日すぐに現地へ行きました。2個か3個、山深い谷の斜面に埋まった状態を見まして、荒神谷も斜面だったことを思い出しました。
佐原 そうですね。
知事 加茂岩倉の位置が荒神谷から約3キロメートルと聞き、これは素晴らしいことだと驚きました。銅鐸は、とりあえずラメールという加茂町の文化ホールで保管したんですが、段ボール箱の中で毛布に包まれた姿は、まるで生まれたばかりの赤ん坊が揺りかごの中に入っているようでした。
佐原 いい表現ですね。
知事 おそらく、出雲の古代史、あるいは日本全体の古代史解明の役に立つということと、もう一つは、今年、東京・大阪・島根の3会場で開催する「古代出雲文化展」に向けて、まさに神々からのプレゼントだと思いました。
佐原 私もいろいろと驚きました。これだからこそ358本の銅剣を持っていたのかと感じました。加茂岩倉の近くに岩があり、その岩から”岩倉”という地名が付いたと18世紀の『雲陽誌』に書いてあることもおそわりました。私も、2キロメートルくらいあるんでしょうか、木の葉を踏んで行ってみました。


「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」
知事 銅鐸は日本独特のものか、あるいは大陸の方からきたものなのか、どのようにお考えですか。
佐原 起源は大陸です。私の同僚の春成秀爾さんが明らかにしました。中国の新石器時代に土で焼いたものがあり、それが出発点です。そして、それが金属に置き換わって、朝鮮半島に伝わる。日本の銅鐸の起源は、その朝鮮半島のものです。
知事 初めは土ですか?
佐原 土です。その次が銅になって、今度は銅に錫(すず)を加えた青銅になる。朝鮮半島のものは20センチメートル以内で、模様がない。日本で独自に発達したということですね。
知事 もともと、どういう目的で造ったものでしょう。
佐原 最初は鳴らしています。銅鐸の内側に突出した帯があるんですね。中につるした棒が触れ合って帯が擦り減っている。神庭荒神谷の銅鐸でも擦り減っていて、「聞く銅鐸」です。「見る銅鐸」は出雲地方にありません。
知事 手で持って鳴らすのですか?
佐原 それが問題なんです。つり手がひもで擦り減るはずなのに擦れた跡がない。ということは、ひもと擦れないようなやり方で下げたか、両手で持って鳴らした可能性があります。しかし、新しくなると、これがだんだん大きくなり、飾り立てて鳴らせなくなったことから、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ移っていきます。
知事 「見る銅鐸」へ移っていったのは、どういう目的でしょう。
佐原 地域の象徴に変わったんですね。初めはお祭りに鳴らしたんです。金属の音はもちろん、初めて目にする金色あるいは銀色のまぶしい光にさぞ驚いたことでしょう。おそらく、稲作のお祭りの場の雰囲気を高めるものだった。それが、地域のまとまりの象徴になった。
知事 弥生時代に稲作が入り、豊作を祈る、また感謝するということですね。


出雲特有の「×」印の謎
写真 知事 今回の銅鐸も、荒神谷から出た銅鐸もすべてのものに「×」印があるのはどういうことでしょう。
佐原 難しいんです。春成さんは、持っている力を封じ込めて出さないという意味だろうと言います。
知事 「×」印が付いているのはほかの地域にもありますか。
佐原 島根県文化財課長の勝部昭さんに教わりましたが、高知県の銅剣に一例あるそうです。岩倉で出た銅鐸のうち、近畿で造ったとみる銅鐸にも付いていますね。同じ人、少なくとも同じ意志で付けたものです。あの「×」印で、荒神谷と岩倉は完全に結び付いたわけです。
知事 「×」印が付いていること自体、出雲地方で鋳造された可能性もあると思いますが。
佐原 鋳造するとき付けるならば、鋳型に刻み、製品上は突出した線で表れます。
知事 後から付けたということですか。
佐原 そうです。岩倉全体の銅鐸を見ると、石の鋳型の段階のものは近畿地方から入ってきたと考えます。和歌山県の太田黒田の銅鐸と兄弟の銅鐸が4つも岩倉に集中して出ていますけれど、それも含めてです。
知事 むしろ私は出雲地方が先行していたのではないかと思いますね。
佐原 そう言うためには、出雲地方で石の鋳型が見つかってほしいですね。出雲地方の来待石で作った鋳型が・・・。来待石という名は、鋳型が出てくるのをつという意味かな。(笑)加茂岩倉の39個のうち、古い方の30個は石の鋳型で近畿地方で造ったもの。出雲地方で造った可能性が高いものは、新しい方の9個の中にあります。そして、出雲地方で造ったとしても、近畿の銅鐸の会社から人が来て、出雲銅鐸会社をつくるわけで、いずれにしても、近畿系です。
知事 加茂岩倉も荒神谷も農道工事によって偶然出てきました。偶然にも期待をするけれども、文献の上からも発掘したいですね。
佐原 どこで造ったとしても、出雲地方に日本最高記録としての358本の銅剣があり、数多くの銅鐸があるという事実こそが重要です。
知事 私もそれだけのものを所有することは、大変貴重なことだと思います。

(次号へ続く)


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