人物歴史物語

西周 西周 「西家には困ったあほうが生まれたものだ」
津和野の人々はこうささやきあったという。
世に「西周の油買いと米つき」と評判されるほど、
周の勉強は度はずれて猛烈なもので、
一般の人の目には、変人のように映ったのである。
油買いに行く時は、油徳利をぶらさげ、書物を読みながら歩いた。
しかも、片足は下駄、もう一方は木履ぼくりという変な格好でも、
いっこう平気だった。
米をつかせると、書物を読みふけるので、
気が付いたときには粉米になっていたという。
少年時代のこの猛勉強が、後年の大学者西周を生むのである。
津和野町郷土館所蔵

 西周は文政12年(1829)2月3日、津和野城下森村の藩医西時義の長男に生まれた。西家は代々外科医として藩に仕え、百石を給与されていた。天保三年周が四歳の時、後田の片河かたこうの家に移った。これが現在西周旧居として県指定の史跡になっている家屋である。

 周はこの家の母屋の前にある土蔵の階下に、三畳ほどの勉強部屋をもらい、猛烈な勉強を続けた。時には、母屋へ帰る時間が惜しくて、母親に握り飯を作ってもらうこともあった。

 周は片河に移った4歳のころから、祖父時雍ときやすについて孝経を学び、6歳にして四書を教えられた。まさに今日でいう英才教育である。12歳で藩校の養老館に入り、本格的な勉学を始めた。土蔵の中の猛勉強は養老館時代の逸話である。周の若き日の勉学ざんまいが、森林太郎・後の森鴎外に与えた影響は大きなものがあったという。

 嘉永元年(1848)周が20歳のとき、家老大岡平助に呼び出され、一代還俗げんぞくを申し付けられた。つまり、医業をやめて儒学に専念せよとの藩主亀井茲監これみの命であった。藩主はつとに周の聡明さを見抜いていたのである。

西周旧居
西周旧居
津和野の町並み
津和野の町並み
 この年、この若さで養老館の教師に任命され、さらに大坂や岡山に遊学して学問を積んだ。25歳のとき江戸に上り、初めて洋学に接したことは、彼の運命を決定付けた。翌年、周は脱藩した。おそらく、藩命による儒学研究をやめ、洋学を学ぼうと決めたからであろう。それだけに、不退転の決意であった。やがて幕府は彼の才を認め、オランダのライデン大学留学を命ずる。周はここで2年半、法律学や経済学、それにミルの帰納法、カントの哲学などを学んで帰国した。

 慶応2年(1856)幕府開成所の教授となり、津田真道・加藤弘之らと開成所授業規則を作成した。この年、幕府の直参に取り立てられ、15代将軍徳川慶喜のフランス語個人教授となった。その後、単に語学のみならず、政治・行政などさまざまな面で意見を述べた。一方、彼は兵学にも見識を持っていたので、幕府の沼津兵学校校長も務めた。明治2年、明治政府に出仕し、陸軍省の官吏になったのも、そうした識見を認められてのことであった。彼はここで軍人勅諭を起草した。

 周は陸軍省に在籍しながら、福沢諭吉・森有礼らと明六社を結成し、欧米の啓蒙思想を紹介した。維新期の教育・文化と軍事は、ともに欧米の思想・制度に基づいており、開明的な点では共通性があった。だから、明六社のメンバーであることや、のちに東京師範学校初代校長になるのだが、そのことは別に不自然ではなかったのである。

 明治23年(1890)帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。明治30年1月、病重しとみた政府は、勲一等瑞宝章、次いで男爵を授けたが、その直後、1月31日、69歳を一期として死去したのである。振り返ってみれば、周は栄達の道をばく進しているが、決して猟官運動をしたのではない。彼の深い学殖が認められたからにほかならなかった。

 周は明治前期の学者のなかでも、福沢諭吉のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとった。そのため、御用学者とみなして過小に評価する意見もないではないが、むしろ、着実な近代化路線の理論的指導者として、高く評価すべきである。

 周の名を不朽のものにしたのは、数々の訳語が学術用語として定着していることである。哲学の語はもっとも有名だが、そのほか、主観・客観・帰納・演繹えんえき・理性・悟性・知覚・感覚・総合・分解等々、今では完全な日用語になっている。

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