松江・青春回想記           藤田  田
松江大橋
松江大橋

大阪生まれの大阪育ち、18歳になるまで大阪から出たことのなかった私でしたが、父の強い薦めで昭和19年四月より昭和23年3月までの4年間松江市で暮らすことになりました。松江市は父が仕事の関係でよく出向いていたところです。
当時体が弱かった私を案じて、戦時中ではあってもせめて風光明媚なところで勉学に励んだほうが健康のためによいとの親ならでは.の配慮が働いたものと思います。談論風発を日々の生活の旨とした自由な校風を誇る旧制松江高等学校に通う傍ら、当地ではさまざまな驚きと生涯忘れえぬ数々の経験をしました。
まず入学前汽車で玉造温泉に出向いた時のこと。駅長の言葉が聞き取れず、同じ日本語でもこんなに差があるものかと驚愕したことを思い出します。次に、松江大橋を渡り切った所に「天要」という天丼屋がありました。お米を食べさせてくれる食堂など皆無といえる時代に、正真正銘の天丼を作っていました。夢心地で食べた天丼の味は無論格別であったことは言うまでもありません。
入学の年の6月ごろ、島根県西部に位置する当時那賀郡都治村(現江津市都治町)と呼ばれていた所で豪雨のため江の川支流がはんらんし、辺りの田んぼが壊滅状態に陥りました。田んぼの土砂を取り除く復旧作業に我々1・2年生が駆り出され、約1カ月にわたり同地で寝泊まりをしました。その間、村の人々からは干し芋で作ったお団子を差し入れによく頂きました。我々はその真っ黒なお団子を「バクダン」と名付け、甘いものが手に入りにくい当時喜んで食べたものでした。作業が終わると、手提げ式の蓄音機を持っている家に集まり、音楽を鑑賞したりする機会もあり、村の人々の親切はいまだに記憶に残っています。
学生生活の合間、休日になると恵曇、大社、日御碕など名所旧跡を積極的に回り歩きました。松江市の武家屋敷が立ち並ぶ町の様子に昔の面影を垣間みる楽しみも覚えました。町の至る所で道が直角に曲がっている訳は、弓、鉄砲が飛んでくるのを防ぐためだと知り、ますます興味を募らせたものです。
昭和20年に入ると戦況も一段と厳しくなり、我々は安来にある日立製作所に飛行機エンジンの部品を作るために動員されました。ここでは夜になると海岸に出て素晴らしい景色を眺め、近くの食堂で取り立ての魚を食べるのがつかの間の楽しみでした。
松江市でもう一つ忘れられないことは宍道湖の美しさです。夕暮れ時に松江大橋から嫁ヶ島方向を見る景色の美しさはほかに例えようもなく、東洋のジュネーブと呼ばれるゆえんでもあります。ある日この松江大橋の上でばったり友人と出くわしました。その友人が面白半分に「この橋から飛び込めるか?」と挑発してきました。負けず嫌いの私は、「飛び込めるとも。なんなら5円かけようではないか」と答え、着物のまま飛び込みました。その後も懲りずに何度か飛び込んだ記憶があります。若気の至りです。
こうして多感な青春期を松江市で過ごした私は、同市に対してひとしお強い愛着を感じ得ません。また、松高在学中寄宿舎生活で得た友との交流は50年経てますます強くなり、学生時代の思い出話に花を咲かせる時が我々にとって至福のひとときでもあります。
松江市は私の青春そのものであり、懐かしい思い出がいっぱい詰まった町でもあります。どうか昔の面影を無くさないで頂きたい。これが私の切なる願いです。


藤田 田 ふじた でん 日本マクドナルド(株)代表取締役社長
大正15年生まれ大阪府出身。昭和26年東京大学法学部卒業。在学中より藤田商店を設立、昭和46年日本マクドナルド(株)設立。日本ハンバーグ・ハンバーガー協会設立に尽力し、初代会長を務める。平成3年、業界初の売り上げ2千億円を達成。同年マクドナルド・コーポレーション・アドバイザリー・ディレクターに就任、世界のマクドナルド経営戦略に参画。昭和61年藍綬褒章受賞。著書に『ユダヤの商法』『起業戦争の極意』等ベストセラー多数。

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