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しまねの誇り「継承・先人からのメッセージ」古代出雲文化の象徴 荒神谷遺跡の青銅器が悠久の時を超えて語りかけるもの
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 昭和59年7月。斐川町神庭の小さな谷で、一度に358本もの銅剣が発見された。その知らせは、県内はもとより、それまでの日本古代史研究に衝撃を与えるニュースとして全国を駆けめぐった。世紀の大発見から、今年で20年。さまざまな調査・研究が行われる中、「誰が、いつ、何の目的でその場所に埋めたのか?」―その謎は、どこまで明らかにされたのだろうか。

水田のあぜ道で拾われた
”一片の土器“が投げかけたメッセージ

4列にそろえられ、整然と並べられた状態で発掘された銅剣

  荒神谷遺跡発見から20年目を迎えた今年の7月12日、遺跡の発見場所に記念碑が建立された。
 石碑に刻印された文字は、”一片の土器から“。銅剣発見の1年前、農道の建設計画に伴う遺跡分布調査に訪れた調査員が、水田のあぜ道で土器のかけらを拾ったことが、すべての始まりだったことを物語っている。
 農道整備など大規模な開発の前には、予定ルート内に遺跡の有無を確認する作業が不可欠で、その時も小さな範囲を試験的に発掘するトレンチ(試掘構)がいくつか設けられた。あぜ道で土器のかけらが発見されたことから調査は入念に行われたが、どのトレンチでも小さな土器片が時々見つかるだけで、住居跡などの集落の形跡は見られない。これといった成果も無いまま、2日目の調査を終えようとしていたその時、青緑色にさびた銅剣の一部が、ついに顔をのぞかせたのだ。もし、あと50aほどトレンチの位置がずれていたら…、青銅器群は今も地中で沈黙を守っていたかもしれない。居合わせた調査員たちの驚きと興奮は、県の教育委員会や国立の研究所などに伝えられ、精密な発掘調査へと発展した。”世紀の大発見“は、あぜ道で拾われた一片の土器がもたらしたのだった。

青銅器の分布図を塗り替える発掘結果

上/小さな谷奥の丘陵斜面に位置する荒神谷遺跡 下/荒神谷遺跡の位置説明図

 銅剣群は、狭い谷間に生い茂る山林に眠っていた。地面から深さ0.5メートル、東西2.6メートル、南北1.5メートルの平坦面に姿を現した銅剣たちは、4列に整然と並べられていたのだ。その様子は、358本すべてが同時に埋められた事実を物語っている。当時、国内で出土した銅剣の数は、すべてを合計しても300本程度。たった一つの遺跡からそれらを上回る数の銅剣が見つかったことにも注目が集まった。さらに、日本最多の銅剣発掘に沸いた翌年の昭和60年には、銅剣出土地点から7?ほど離れた斜面で、16本の銅矛と6個の銅鐸が一緒に出土している。
 この2度にわたる発掘調査は、それまでの考古学研究の定説を大きく覆すこととなった。なぜなら、銅剣・銅矛といった武器形の青銅器は、これまでに九州北部を中心とした地域で多く出土し、銅鐸は近畿・東海・四国地方で集中的に出土している。弥生時代、三つの青銅器はいずれも”祭りの道具“として用いられていたが、武器形(銅剣・銅矛)と銅鐸では祭りのあり方や考え方が異なるため、それらを一緒に用いることは考え難い。ところが、荒神谷遺跡ではそれぞれの青銅器が同じ場所から出土した。このことは、日本の青銅器分布図を塗り替えることになり、当時の出雲地方が独自の文化を持つ地域であったことをうかがわせる。

世紀の大発見を伝える当時の新聞記事(昭和59年7月18日付け・山陰中央新報)

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