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しまねの誇り「継承・先人からのメッセージ」
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 古来より、全国各地の人々の崇敬を集めてきた出雲大社(大社町杵築東)。堂々とした風格の中、神さびた独特の雰囲気を醸し出す本殿の高さは約24m。神社建築物では全国随一の高さを誇るが、古来は、高層ビル15階(約50m)に相当する高層神殿だったといわれてきた。
 果たして、空高くそびえる幻の神殿は存在したのか?その謎を解き明かす大発見に迫ってみた。

金輪御造営差図

 平成12年4月、出雲大社の発掘現場で、巨大な柱が土中から姿を現した。発見されたのは3本のスギの木を束ねた柱の根元部分で、直径は約3mにも及んだ。これは、出雲国造千家家に伝わる古代神殿の図とされる「金輪御造営差図」に類似する姿形であった。その巨大さ、構造は高層神殿の証として全国から注目を集めた。「とにかく、柱の大きさに驚いた。一瞬、神話や伝承が頭の中を駆け巡り、これはまさに、夢の発見だと思った」と島根県古代文化センター主任研究員の錦田剛志さんは当時を振り返る。
 社伝によると、平安時代の本殿の高さは48mで、あまりの高さのためか転倒を繰り返したとされる。このように、出雲大社の古来の姿を伝えてきたのは、文献と伝承のみ。例えば、10世紀末、源為憲がまとめた貴族子弟の教科書『口遊』では、国内の高層建築ランキングを「雲太、和二、京三」と記載されている。雲太は出雲大社のことで一番、和二は東大寺大仏殿のことで二番、京三は平安京大極殿のことで三番を示し、当時の出雲大社が、高さ45mの東大寺大仏殿より大きかったことを伝えている。そのほか、1190(建久一)年春、出雲大社を参拝した歌僧・寂蓮法師が「この世のこととも思えない」と歌を残している。12世紀半ば、都から出雲の国に出された公文書にも、「天下無双の大厦、国中第一の霊神」との記述もある。

発掘現場の様子

 しかし、こうした文献や伝承の裏付けとなる考古学上の遺構や遺物が見つからなかったことから高層神殿説は疑問視され、先に紹介した「金輪御造営差図」も、あまりの異様なスケールに信憑性が疑われてきた。それ故に、巨大柱の出現が、高層神殿説に否定的だった一般常識を覆す発見として、大きな注目を集めたのだ。
 発掘調査は、拝殿の地下祭礼準備室の工事に伴ったものだったが、工事は直ちに中止され、遺跡調査を本格化。同年十月には、心御柱と南東側柱の2カ所が相次いで発見された。これによって、48mの高層神殿の存在が浮上。さらに、本殿の規模や向きが明らかになったのである。今回発見された柱は、残念ながら、”雲太“と呼ばれた10世紀頃の柱ではなかったが、鎌倉時代初め(13世紀)頃に建てられた高層本殿に伴うものと推測された。
 「誰が、なぜ、出雲の地に高大な建物を建て続けたのか・・・?さまざまな謎を解く答えはすぐには出ないでしょう。しかし、一つ一つを突きつめ、考えていくことが重要です。これこそ、古代出雲にふさわしい、夢のある仕事だと思います」と錦田さんは語る。
 雲に分け入るようにそびえ立っていたと寂蓮法師にいわしめた高層神殿は、今なお、その存在を無言で語り継ぎ、次なる謎への解明へと多くの人々を駆り立てる。その姿を現代に甦らせようと、出雲大社の東隣に建設中の「古代出雲歴史博物館」では、発掘された宇豆柱や巨大本殿の推定復元模型を展示する予定だ。

巨大柱が語る高層神殿

高層神殿のイメージ図

遺物が語る

遺跡から出土した遺物 ●柱の上に、焼けた土が堆積し、その中から祭祀に使用された皿や台付き土器が出土。建物が廃絶された時に、柱の上で火を使用する祭祀が行われたのかもしれません。
●柱の上面から、本殿建築に使用されていたと見られる長さ40cm以上もの鉄釘、3本の柱を束ねるために使用されていたと考えられる鎹状金具が出土。
●柱の底から、祭祀用と思われる鉄製手斧が2点出土。
●柱材の表面に赤色の顔料が付着。柱が赤く塗られていたようです。

遺跡が語る

出土した3カ所の柱の位置関係 ●発見された3本の巨大柱の配置は、「金輪御造営差図」と類似するものの、細部には異なるところもあります。そのため、図に示された本殿は別の場所に存在するとも考えられます。
●3本束ねの柱の構造が、数回にわたって継承されていたようです。
●柱材はスギ材を利用。
●今回出土した柱が支えた本殿は、柱材の科学分析の結果や、ほかの出土品から、鎌倉時代初め頃に造営されたものと考えられます。

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