澄田信義
島根県知事
澄田信義
すみた のぶよし
島根県知事。昭和10年島根県出雲市生まれ。東京大学法学部卒。和歌山県警察本部長、日本国有鉄道常務理事を経て、昭和62年より現職。現在5期目。
和田 毅さん
和田 毅
わだ つよし
プロ野球選手
(福岡ダイエーホークス・投手)
昭和56年、愛知県生まれ。
小学6年のとき出雲市に移る。出雲三中から浜田高校に進み、平成9年夏甲子園出場、10年夏甲子園ベスト8進出。11年早稲田大学入学。奪三振記録を塗り替え、52年ぶりの春秋連覇に貢献するなど、そのめざましい活躍ぶりで大きな注目を集める。リーグ通算476奪三振。15年。ドラフトでダイエーに入団。4月対西武戦での初勝利以来、高速スライダーを武器に14勝を挙げ日本一の原動力となる。同年パリーグでは23年ぶりとなる満票で新人王を獲得。左投左打。


 
甲子園を目指した高校時代を過ごした港町の浜田市

島根から生まれたスーパールーキー

知事 昨年は、パ・リーグ新人王獲得と福岡ダイエーホークスの日本シリーズ優勝に加え、アテネ五輪出場権の獲得、本当におめでとうございます。心からお祝いを申しあげます。島根県出身のルーキーとして、私たち県民にとっても大きな誇りです。日本シリーズは私もテレビ観戦しましたが、第3戦に登場して好投されたときのお気持ちを、まず聞かせてください。
和田 第3戦はビジターとして甲子園球場での開幕戦だったので、指名してもらったことはすごくうれしかったです。ただ、一番びっくりしたのは甲子園の雰囲気です。阪神ファンがほとんどを占めていて試合の前から野次が飛んでいました。さすがにやりづらかったです。しかし、勝負は別もので、僕自身そんなに調子は良くありませんでしたが、甲子園という、いわば敵地の雰囲気に乗せられた形で好投できたような気がしています。
知事 3勝3敗で迎えた第7戦にルーキーが先発したのは、プロ野球史上初の快挙で、しかもみごとな完投勝利でした。最後の決戦という重要な場面で指名されるということは、監督からの信頼がずいぶん厚かったということですね。
和田 3戦目の負け試合のあと、第7戦に登板させると言われましたが、僕自身はそこまで回ってこないと思っていました。だから、先発するときにはすごくうれしく、やりがいがある登板だと思った半面、本当にルーキーの僕が投げてもいいのか、という気持ちもありました。でも、同じ投げるのであれば、4、5回で交代してもいいから最初から全力で飛ばしていこうと心に決めていました。最後まで投げきれるとは夢にも思わなかったです。
知事 プロになって初めてのシーズンを終えられ、今はどういう気持ちですか。
和田 結果を見れば、いい成績を収め、リーグ優勝もできましたし、日本一にもなれた上に、胴上げ投手になりました。1年目からすべてをやってしまったのでこれからが怖いかなという思いがありますけど、この成績を常にあげられたらいいですね。

きつかった地獄のランニング

 
日本シリーズ優勝を決め、城島捕手と抱き合って喜ぶ和田投手(福岡ドーム)
H15.10.27 写真提供/福岡ダイエーホークス
知事 どんなきっかけで野球を始められたんですか。
和田 父が学生時代に野球をやっていたので、僕も物心つくころから野球らしきことをしていました。野球チームに入りたいと言ったとき、小学6年生まで続ける意志があるかどうかを確かめた上で、認めてくれました。父は大学で首位打者をとったこともあり、バッティングはもちろん、けがをしにくいような投げ方を教えてくれましたので、ほとんどけがもせず、野球が好きなまま続けてこられたと思います。
知事 出雲三中から県立浜田高校へ進学されましたね。
和田 中学時代には甲子園も夢でしたが、東京六大学のどこかに入ってあこがれの神宮球場でやりたいと思っていました。先生に相談したら、当時、大社高校には六大学の指定校が少なく、浜田高校の方に枠がたくさんありました。甲子園出場については大社高校の方が断然有力でしたが、浜田高校も県内からいい選手がたくさん集まってくると聞いていたので、校区外でしたけど、何とか頑張って浜田高校に合格しました。
知事 早稲田大学を選ばれたのは何か理由があったんですか。
和田 東京六大学の中では早慶戦が一番注目され誰ものあこがれです。大学野球ならそこで投げたいという思いがありました。そんな中で、早稲田大学の特別選抜推薦入試の受験資格が、全国大会8位以上入賞と、通知表の成績3.5以上ということを知りました。通知表の成績は充分でしたけれど、全国大会8位以上入賞は難しいと思っていたら、甲子園でベスト8の成績を残せ、それで推薦入試を受けることができ、合格できました。実は、高校2年の秋に初めて大きなけがをしたとき、もう野球ができないかもしれないと(思うほど)すごく不安で悩みました。そのときチームのみんなが、「和田が復帰するまでに、多少の失点には目をつむれるような強い打線を作っておこう」と頑張ってくれたおかげで、3年の夏は打線もすごく良くて、甲子園でもみんな勝負どころでヒットを打っていました。島根県大会も甲子園大会も「和田がいたから」と言われましたけれど、それは逆で、僕が助けられた方です。
知事 なるほど。チームメイトの強い支えがあっての快進撃で、そして早稲田進学への大きなポイントにもなったんですね。和田投手は「ドクターK」という異名をお持ちで、東京六大学リーグの三振奪取記録も作られるなど大活躍されました。大学時代のすばらしい思い出もたくさんお持ちでしょう。
和田 皆さんは三振記録の瞬間や春秋連覇のことをよく言ってくださいますが、一番に思い出されるのは、実は地獄のランニングなど、練習がすごくきつかったことです。あれだけやらなきゃ勝てない、ということが分かりましたし、あの練習があったからこそ、けがもなく、実質3年間の6シーズンで1回も休むことなく投げ通せ、プロに入ってからもシーズンを無事に投げ切れたと思っています。もともと僕はそんなに体が大きくなくて素質的にも恵まれていない方ですが、ではどうすればいいかといえば、練習するしかなかったんです。そのおかげで、何とか人並にできるようになりました。逆に言えば、誰にもいろいろな才能はあると思いますが、僕には努力する才能があるのかもしれません。
知事 プロを志したのはいつごろからですか。
和田 小さいころはやはりプロになりたい夢を持っていましたが、大学時代には、将来は高校野球の監督として甲子園へ行きたいと思い、教員免許を取ろうと考えていました。結局4年のときに忙しくて教育実習に行けなかったので、それだけがちょっと心残りです。プロを意識しだしたのは、大学2年の秋のシーズンが終わってからです。
知事 福岡ダイエーホークスを選ばれた理由は何ですか。
和田 いろいろありますが、僕は早慶戦で育てられたという自負があったので、自分が成長できる場所で投げたいと思い、ホーム球場が満員になるチームが希望でした。決め手は、福岡ドームの雰囲気が早慶戦ととてもよく似ていることと、やはり球団の誠意です。
知事 福岡ドームのマウンドには、私も立ったことがありますよ。ダイエーが最初に優勝した年の2年ほど前です。島根県は全国各地で観光や物産をPRしているのですが、プロ野球を見に来るたくさんの方々も島根ファンになっていただきたいとの思いがあります。そのため、広島球場での広島・巨人戦や、近鉄バッファローズの梨田昌孝監督(浜田市出身)がまだ二軍監督で、大阪ドームができたときなどに始球式をして、島根をPRしました。同じように、ダイエーのドーム球場で始球式をさせていただき、王監督に出雲大社の打ち出の小槌をプレゼントして、非常に縁起のいいものだからこれを振れば優勝できるかもしれないと話したこともあります。ドーム球場はいろいろありますが、広くてなかなかすばらしい球場だと思います。

知事対談 「島根が育んだ夢」を語る
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