シリーズ暮らしのスケッチ平田市
シリーズ暮らしのスケッチ
守り守られついじまつとともに
いつもの風景に溶け、
存在感もぼやけるほど普通に築地松はあった。
ふるさとを離れてはじめて
そのかけがえのない価値に気づく。
築地松は、出雲平野を象徴する
オブジェのようなものだったのだと。
だが、ひとつ消え、ふたつ消え・・・・・・。
たしかに減った。いまや保全を必要とする。
県や町は、追憶のなか
ただ懐かしむだけの景観にしてはなるまいと
方策を立てて努めているが、一方
築地松のある家で暮らす人々の思いはさて……。
2軒のお宅を訪ね、聞いてみた。
取材・文/ 伊藤 ユキ子
紀行作家。出雲市出身。RKB毎日放送アナウンサーを経て、文筆活動に入る。多数の旅行情報誌にて活動。世界各国を巡ってお茶の文化を描き出した『紀行・お茶の時間』は平成10年のJTB紀行文学大賞を受賞。現在は「人」と「歴史」、暮らしに根差した「手技」をテーマに世界中を旅する紀行作家として活躍。
   
暑さにもめげず・・・・・。炎とさざなみ立つ艶やかな田んぼの緑と、空の青とを胸いっぱいに吸い込みながら 築地松は周囲の風景と調和し、四季の詩を謳う。春には穏やかな陽光の下、頬なでる薫風を賛美するような
昔はあって当たり前のものだった
 
隠居さん夫婦を真ん中にして。
築地松は、代々の原家を見つめてきた
 一面の田んぼのなか、ぽつぽつと点を打つように家がある。その西側と北西側を囲うのが、築地松。神在月(10月)のころから吹きつけだす冷たい季節風を防ごうと、盾となって立ちはだかっているのである。どこにもない、出雲平野だけに存在する、美しい散居の風景だ。
 八岐の大蛇で知られる斐伊川が宍道湖へとそそぐあたり、平田市の下出来洲地区まで出かけてみた。土手を下れば、まことに平らかな広がり。空が大きい。やけに大きい。それを、築地松が潔い線で四角に切り取っている。
 そばまで近寄り、仰ぎ見た。クロマツの枝は曲がりくねりつつ横に張り出し、四角の中を埋めている。雄々しく武骨な枝ぶりに、凄みのある形相で立つ仁王像を想った。
 枝葉の透き間に見えるのは、原富士夫さん宅の母屋だ。南向きの、ひと部屋ぶんはありそうな玄関で、上がりがまちに腰かけ、お茶をいただく。74歳になる「隠居」、亮一さんが石油ストーブに手をかざしながら「風の道」について話しだした。子どものころ、よく耳にしたものだという。それは、日本海から大社の稲佐の浜に上がり、ほぼ真東に進む。やがて斐伊川をまたぎ、宍道湖へと抜けるそうな。風の道の幅がいかほどかは知らないけれど、おそらく原家もその真っただ中。明治15年、植えられた当初は高さ1メートルほどだったというクロマツが西に8本、北西に3本、立派に育って家を守り続けている。
 ふだんの暮らしのなかで、それを意識することはほとんどない。が、ありがたみは不意に、しかも痛烈に思い知らされることになる。
「平成3年だったか、大きい被害の出た台風があーましたでしょ。なんと、うちは築地松のおかげで瓦が1枚も飛ばんだったけん」
 しかし、ここ20年ほどで、築地松のある家はめっきり少なくなった。「櫛の歯が抜けるように」減っていったと亮一さんは表現する。マツクイムシの発生も原因のひとつだ。家の屋根が萱葺きから瓦へ、戸が板からガラスやサッシへと変わり、風への恐れが薄らいだせいもあろう。なのに、維持管理のための費用は馬鹿にならない……。
 途中から話に加わった家長の富士夫さんが言う、生まれたときからある築地松だ、なくなれば「淋しい」と。飾り気のない言葉の裏には、あって当たり前のものへの愛着や敬慕、懐旧などの情が渦巻いているにちがいない。
「そーだども、せがれの代になってどげんすーかは、さぁーて、わからんわ」
 原家は兼業農家で、4世代がそろう九人家族だ。築地松に寄せる思いも、上2世代と下2世代では隔たりがある。境界線が引けるあたりで、住居の形態や生活の様式ががらりと変わってしまった。時代もまた……。孫に、おじいちゃんらは日が暮れるまで外を駆け回って遊んだものだと語りかければ、「何度も聞いたよ」とテレビゲームに熱中したまま答える、まったく素っ気ないと苦く笑う。
 下出来洲地区では今年から、田植えも稲刈りも営農組合が大型機械を導入し、一括して行うことになった。暮らしは、さらに変化していくことになろう。だが、築地松を絶やすわけにはいかないと、ふたりは腹を決めている。
「だてて、これ以上減ると、もっともっと淋しくなってしまいますがね」

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