特集 出雲阿国歌舞伎発祥400年記念 阿国について語る 『かぶく(傾く)精神で、時代を突き破る』
   
 慶長8(1603)年、出雲の阿国という名の女性が率いる芸能集団が、京の都で斬新な踊りを演じてから、今年で400年。その踊りは、当時の京都で流行した『かぶき者』(*風変わりな者)の風俗を大胆に取り入れたことから「かぶき踊」と呼ばれ、圧倒的な人気を博した。また、阿国自身も歌舞伎の創始者として、日本近世演劇史にその名を刻んだ初めての女性として位置づけられている。阿国の生誕地といわれる島根県大社町。今年は、“出雲阿国歌舞伎発祥400年”にちなみ、大社町を中心に年間を通して様々な記念事業・交流イベントが展開される。全国的にも歌舞伎発祥400年が注目される中、日本文化の礎を築いた「出雲阿国」の足跡を訪ねてみたい。

芸の新境地を自らが拓いた、
力強くてたくましい女性
 出雲阿国は、出雲大社所属の鍛冶方・中村三右衛門の娘といわれている。出雲大社の巫女をしていたが、出雲大社修繕のために諸国を勧進し、浄財(寄付)を集める手段として巫女姿で神楽舞いや念仏踊りを舞い踊るようになった。それまでの中世演劇は、”踊り=祭事“で、神聖なものだった。しかし、阿国は最先端のファッションに身を包んで舞台に臨み、踊りに小歌を挿入したり、京で美男として有名であった名古屋山三の亡霊を登場させるなど、独特の舞台構成で演じたために、当時の都の人々から喝采を浴びた。戦国時代の長い乱世から、ようやく開放された江戸時代の初め頃。徳川家康によって天下統一が成された世の中は、人々の暮らしに平穏をもたらす。しかし、一方で若者たちは、夢や希望が持てないという”時代の閉塞感“に包まれていた。そんな時代背景の中で現れた阿国のかぶき踊りは、それまで非公認とされていた女性の歌舞であるばかりか、当時の庶民のあこがれであった人気の風俗(湯屋・お茶屋の様子)やキリシタン文化、そして男女間の感情の機微が多彩に盛り込まれ、舞台に見入る人たちの心をつかんだのである。京の都や江戸に下り「かぶき踊り」を演じて名を馳せた阿国は、その後、芸人としての限界を感じ、生地の杵築(大社町)に帰郷する。号名・智月尼となった阿国は、生家の近くに草庵を建て、その生涯を閉じるまで法華経の読誦と連歌作りの毎日を送ったと伝えられている。阿国の一生については、伝説の域を脱してはいない。経歴や没した年月・墓所についても今なお諸説さまざまである。しかし、京の都に上り「ややこ踊り」(幼児から12〜3歳までの子供の踊り)を踊り、その後大人の女性にさしかかる岐路で見出した「阿国かぶき」が、近世の日本演劇に多大な影響を与えたことは間違いない。現在、男性だけで演じる歌舞伎の始祖が、なぜ女性なのか?それは、阿国が女性であることや時代という枠にとらわれず、演者として自らが新しい道を切り開き、斬新な発想で活動したからだ。その「かぶく(傾く)精神」は、歌舞伎という伝統芸能のエネルギーとして、今も脈々と息づいている。阿国という女性の”時代を突き破る力強さとたくましさ“は、21世紀の今を生きる私たちにも、大きな勇気と行動のヒントを与えてくれているようだ。
*参考文献 歌舞伎人名辞典
(日外アソシエーツ発行/販売元・紀伊國屋書店)
 
 
阿国歌舞伎草子(大和文華館蔵)
阿国歌舞伎図
「阿国歌舞伎図」(京都国立博物館蔵)より転載


寄稿 阿国のふるさと・大社町杵築
斐川西中学校 校長 山さき裕二
 
江戸初期の杵築町(北島英孝氏蔵)
戦国期には山陰屈指の商業都市
 縁結びの神様として知られる出雲大社は、年間200万人とも300万人ともいわれる参拝客でにぎわっている。この出雲大社のお膝元にあたるのが、杵築(大社町の一部)である。江戸時代には門前町として栄えた地域であるが、集落や町場の形成は中世までさかのぼる。つまり、平安末から鎌倉初めころにはすでに門前市が起こり、近郷近在との種々の取引がなされていた。この時期の市の成立は、山陰地方では最も早いといわねばならない。その後も、町場の各所で商取引が活発に行われ、戦国期には出雲国はもちろん山陰地方でも屈指の商業都市に成長していた。
ひしめく有力商人
 戦国期の杵築町には、くし屋・米屋・風呂屋・鍛冶屋などの一般の商人や職人のほかに、平田屋佐渡守・大和屋彦五郎・丹波屋彦兵衛・坪内孫次郎などの出雲地方を代表する有力商人がひしめいていた。平田屋佐渡守とは、その名が示すとおり平田町を根拠とする武士出身の新興商人のことである。彼はのちに毛利氏の広島進出に付き従い、広島商人頭にまで出世する人物である。当時は杵築にも屋敷を構えていた。
 大和屋彦五郎・丹波屋彦兵衛は、その屋号が示すとおり大和国や丹波国と何らかのつながりをもつ大商人と考えられている。また坪内氏は、戦国大名尼子氏・毛利氏から特権を付与された杵築の司商人であり、出雲国全域の商人を束ねる存在でもあった。彼は各地で発生する商取引に関するトラブルを調停する権限も有していた。このように、戦国期から近世初頭にかけての杵築町は、出雲地域経済の中核的役割を果たした町であった。おそらく、近郷近在のヒト・モノ・カネ・情報がこの地に集中したものと考えられる。
宿泊施設と参詣客
 戦国期の杵築町には、参詣客のために宿泊施設も整えられていた。坪内氏をはじめとする有力商人の多くは、出雲大社の神官でもあり、宿泊施設も経営していた。この宿泊施設のことを「御供宿」といい、杵築に16軒あった。御供宿の経営者は、出雲国内外の各領主と契約を取り交わし、それぞれの支配地域の民衆が大社参詣の際には、あらかじめ領主が指定した宿で宿泊するようになっていた。出雲大社参詣を果たした民衆が宿泊する際に、慰みとして芸能が供されたことは想像に難くない。
 
尼子氏が坪内氏に与えた通行許可証(坪内家蔵)
杵築の芸能一座
 杵築は出雲大社との関わりから、古くから芸能とは縁の深かった町である。幾たびか行われた遷宮行事や毎年の祭礼行事の際には、神威を高めるために競馬や流鏑馬・相撲などが行われ、また舞楽や田楽などの芸能が奉納された。このようななかにあって、芸能を生業とする一座も存在した。1575年(天正3)に当地を旅行した薩摩国(鹿児島)の島津家久日記によれば、「温泉津の小浜で出雲歌にあわせて踊る子供たちの踊りを見物した」とある。これはきっと杵築の芸能一座であろう。杵築には、このような子供の踊りを売りものにする一座が存在し、近隣各地を巡業していた。その中のいくつかは、遠く京都・大阪・奈良あたりまで赴いた一座もあったに違いない。
 歌舞伎おどりを始める前の阿国は、都で「ややこ踊り(子供の踊り)」の名手として知られていたが、彼女の踊りのうまさはこのような地域的背景が関係しているものと思われる。

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