私と島根 鈴木 健二
石見と阿蘇の絆
 
石見神楽の代表的演目「塵輪」(浜田市)
 私は「みちのく育ちの江戸ッ子」と自称している。元禄時代あたりから隅田川の川っぷちで呉服関係の小さな商いを続けていた家に生まれたが、戦争中にどうせいつかは戦場で死ななければならない運命なのだから、それまでは静かな所で本を読んで、自分も人間の歴史の潮流に浮かんでいた時があったのだという証を立てたくて、旧制高校を青森県の弘前に決め、ひとり津軽へと旅立ったのが16歳の春であった。戦後になって、旧制大学も仙台へ行った。東京は無縁となってしまった。多感な青春をみちのくで暮らすうちに、いつしか私は大自然の緑の中で、何かの形で社会奉仕活動をしたいと思うようになった。
 全く興味も関心もなかった放送局に偶然就職してしまい、やがてのことに日本でもテレビが始まると、死にたくなる程の忙しさの中に放り込まれて、36年が過ぎた。
 もうやめるぞと1年前に宣言して退職すると、妙な縁から私は熊本県立劇場という文化ホールを預かることになり、地方行政は一軒一軒に文化を出前するのであるとのかねてからの信念に従って、直ちに全市町村を歩いた。
 そこで出会ったのは、もはや子供がいない究極の過疎と、その大波を受けて衰退して行く神楽や獅子舞などの伝承芸能であった。農山漁村の心が消滅するのは、日本人が心を失う事実の証明であると感じた私は、多数の保存会に、費用は全額私が働いて出すから、あなた達は時間と努力を私に下さいと訴え、完全復元上演をしませんかと呼びかけた。着任3か月後には劇場に文化振興基金制度を自分で設け、熊本で得られる私の全収入をここに投じ続け、これを復元の原資とした。名乗り出たのが阿蘇郡波野村中江の「岩戸神楽三十三座」であった。江戸時代に石見から豊後を経て阿蘇に伝わった徹夜で演ずる神楽だが、会員は50人から15人に減っていた。
 しかし私は燃えた。私も丸2年間村へ通い、遂に私は世界で初めて文化ホールを徹夜で公開し、20時間上演に挑戦した。全国から8000人が押し寄せ、6000人が徹夜し、幕が下りた瞬間、舞台と客席は感動で一つになった。
 私も設計から参加して、この上演を記念して野外舞台のある一万坪の神楽苑が誕生すると、石見神楽も春と秋の神楽フェスティバルに参加して交流が始まり、中江神楽も石見を訪れ、私も同行した。島根に行くのは楽しい。
 神楽囃子は日本人の心のリズムである。この音が響く限り、日本人は確実に存在する。

鈴木 健二
すずきけんじ
鈴木 健二
 青森県文化アドバイザー、青森県立図書館長。36年間NHKでアナウンサーを勤め、テレビ大賞他多数を受賞。退職後熊本県立劇場館長となり、全国に伝承芸能復元ブームを起こす。人生論を中心に著書は200冊を超える。平成11年から請われて青森へ。

鈴木 健二/堀江美都子

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