しまねの百年 民芸運動の勃興














 

民芸−民衆の工芸


土地と歴史、伝統と環境、そして民衆の暮らしに根ざして作られた工芸が民芸であると、安来出身の陶工河井寛次郎かわいかんじろうは、その著書『六十年前の今』のなかで述べている。

その河井や柳宗悦やなぎむねよしらによって、初めて全国の民芸品を集めて開催された民芸品展覧会(昭和7年)の趣意書で、次のように呼びかけた−

「民芸品とは民衆的工芸品で、日常生活品、例へば勝手道具、手廻りのもの、普段着の如きものを指す、従って廉価多産的で産業的価値あることを必要とする実用品なれば、健康な丈夫なものがよく、凝ったものより自然な素朴なものを歓迎す」

民衆的工芸品である民芸品は、日常生活で使う実用品であり、民芸品がもつ美とは、美術品の豪華な美しさとはちがって、用途にふさわしい実用的な機能が作りだしたもの、内面的で巧まずして作り出された素朴な美しさである。

昭和の初期、民芸という新しい価値観で生活実用品が見直され、若い工人たちを奮起させた民芸運動が、以来今日に至るまで島根の地では受け継がれてきている。

不況下での新しい見直し


昭和4年秋にはじまる世界大恐慌の嵐は、翌5年には繭価の暴落をきっかけとする農業恐慌を結果する。『島根県統計書』でみても、大正15年の価格と比較して、昭和5年の米価は半額に、繭価は3分の1に下落しているのである。

米作と養蚕を柱にしていた農家には、代わりの作目が求められ、「副業」という名で経営を多角化し、不況からの「自力更生」が図られた。

農家副業の紙すきもそうである。紙価は10年間に半値となり、県下の紙すき戸数も半分に減ってしまった。そこで島根県の工業試験場では、粗製濫造で評価を落した機械漉きをやめて、製紙工場では作れない手漉で良質の紙を作らせることにして、県下各地で伝習所を開設して技術指導をしていった。量から質への転換である。この時、講師に招かれて指導に当たったのが、若き日の安部榮四郎あべえいしろうであった。

安部は、岩坂いわさか村(現 八雲やくも村)の自宅から、12キロの道を自転車をこいで松江の試験場に通い、技師の下で紙の質を向上させる試験研究に従事していた。そして昭和4年には、のちに松江にやってくる柳宗悦から激賞される雁皮紙を作るのであった。

民芸品としての再認識


柳は、前述の民芸品展覧会の趣意書に記していたように、民芸には「廉価多産的で産業的価値」があることを求めていた。産業として発展してゆくためには、用途に適かなった実用性が必要条件であり、使う人の暮らしに役立つもの作りこそが民芸の目標であり、ほんとうの美しさは用から生まれると説いた。仕事と作品に新しい質を追求する柳らの民芸の提唱に対して、副業のレベルにとどまって発展の方向性を見出せないままでいた工人たちが共鳴し、新らしく民芸運動に参加することによって発展への道を歩むのであった。

昭和6年6月、柳は松江商工会議所の太田直行おおたなおゆきの招きで島根県にやってくる。太田は陶工の河井と中学同窓であり、京都清水で陶窯をもつ河井のところへは、柳をはじめ益子の浜田庄司はまだしょうじら民芸仲間が訪れていた関係で、太田も柳らと相識ることになる。柳らが雑誌『工芸』を創刊したのがきっかけで、太田は柳を島根県に招いて民芸運動を進めることを考えた。

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山陰新民芸品展の案内状(安部榮四郎著『紙すき五十年』より転載)
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昭和9年8月バーナード・リーチさんを囲んで(松江市・皆美館)(安部榮四郎著『紙すき五十年』より転載)

柳らの工芸診察の旅


その第一着手が、津和野から安来に至る県内各地をみてまわった「工芸診察の旅」であり、同時に「正しい工芸の展観」を各地で開催していった。

その詳細については、太田の『島根民芸録』が記しているが、工芸診察の旅の成果として、益田では喜阿弥きあみ焼の土瓶と糊壷、浜田では粗陶器に竹工品、利休饅頭まんじゅう、都野津のワサビおろし、温泉津の平鉢、大森の竹箸と陶器、今市の日の出団扇うちわ、広瀬の煎茶碗、ぼてぼて茶碗、そして絞り染、安来の木工品に織物、金工品が、柳の注目するところとしてあげられている。

そのいずれもが、これまでは地方の限られた需要に対して細々と作られてきていたもので、もちろん島根県を代表する名産品、特産物の地位は得ていなかった。

柳が松江の会場で一番喜んだといわれている雁皮紙にしても、岩坂の安部が県の副業指導員として従事していた県の工場試験場が、たまたま受注した永久保存用の記録用紙として抄造した紙の残りでしかなかったのである。その紙を柳に見てもらったところ、柳はとびつくように雁皮のスジ入りの紙をほめて、これを使って色紙や名刺などを作ってはどうかと助言したという(太田『出雲民芸紙の由来』)。この出会いについて柳もまた次のように記している。

「その折に希望を燃やしたのは雁皮紙であった。薄葉のものは誰でもが知りぬいている、しかし古書の料紙であったあの厚手のものを、この地で再びよみがえらすことのできたのは、何たる倖しあわせなことであったか」(柳『和紙の美』)

島根民芸会の発足


当時の島根県は、全国一の雁皮紙の原料産地であった。しかしその価値は認められず、雁皮紙を作っても売れなかったことから作られないようになり、もっぱら楮こうぞと三椏みつまたを原料にして紙すきが行われていたのである。それが柳の指摘によって、忘れられていた地域の資源が見直され、新しい工夫が抄造技術に試みられることを通じて、質の高い雁皮紙としてよみがえったのである。

■昭和10年頃の島根県名産名物番付
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「三椏を加へて漂白すれば純白となる上に、日本紙及び西洋紙がもつ欠点を完全に除き、而も両紙の長所を保有するという理想的な紙で、三色版に使用すれば最も価値があるから、豊富な材料を以て全国に提供する必要がある。」(『松陽新報』昭和6年9月10日)

右のようなアドバイスを与えた柳は、雑誌『民芸』に雁皮紙を使うことにしたほか、松江出身の平塚運一ひらつかうんいちが主宰している『版画研究』にも使われるようにして、全国市場に島根の雁皮紙をアピールしていった。

地元では松江商工会議所が中心になって、販路拡大の労をとり、各地で開催される民芸品展への出品をあっせんした。それは雁皮紙だけではない。島根の民芸品の全国デビューが、昭和6年10月の京都大丸会館、11月の東京銀座資生堂を会場にした山陰民芸品展の開催で実現した。

全国的な評価をたしかなものにした島根の工人たちは、昭和7年5月29日、益子の浜田庄司を迎えて、松江の皆美館で島根民芸会を発足させる。参加者は太田をはじめ、陶工の尾野敏郎おのとしろう、船木道忠ふなきみちただ、福間定義ふくまさだよし、紙すきの安部梅雄あべうめお、安部榮四郎、木工の河井善左衛門かわいぜんざえもん、金工の金田勝造かねだかつぞうら14名であった。彼らが中心になって、島根の民芸運動は柳やバーナード・リーチの指導を得ながら発展していく。

島根の民芸運動は、戦時下の中断を乗りこえて戦後に大きく開花し、島根を代表する特産品の地位をつくることになる。 (島根大学名誉教授/内藤正中)