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勝部貫一(後段右から3人目)と包蒙義塾の生徒たち
(半田礼子著『包蒙の白い道』より転載)
 











しまねの百年 西洋学受容の先駆者たち




松江藩校での西洋学


明治維新後、松江藩は藩士の子どもが8才になると藩校に入学させることを定めた。藩では積極的に洋学普及に取り組み、藩校修道館には皇学・儒学と並んで洋学も設けられ、洋医学校が開設され、兵制もフランス式に改められた。こうして藩校で洋学を学んだ者は、明治5年に500人もいたという。

維新後に活発になる松江藩の洋学は、幕末の文久2年(1862)に江戸藩邸で西洋学校を開設したことにはじまる。この時教授になったのが仏語の入江文郎と英語の布野雲平であるが、布野は翌年に松江の藩校に西洋学校を開設するにあたって、江戸の藩邸で購入していた洋書を三棹の長持に納めて帰国している。いまも県立図書館と日赤松江病院図書室が所蔵している『雲藩図書』がそれであり、1781年にハルマが刊行した『蘭仏辞典』や『仏蘭辞典』などが含まれている。藩校では布野が英学、間宮観一が蘭学を担当し、仏学がはじまったのは庄司郡平が帰国した慶応2年(1866)からである。

フランス派遣の留学生


藩校修道館の西洋学は英・蘭・仏であったが、松江藩として最も力を入れたのは仏学であった。親藩松平家として幕府にならってのことであったと思われる。

明治3年(1870)松江藩は兵制をフランス式に改めることとし、外務省を通じてフランスからアレキサンドルとワレットの2人を修道館に語学教師として雇い入れた。砲兵軍曹のワレットに砲術を習って仏式陸軍の編成替えに着手、歯科医のアレキサンドルは医学・化学・鉱物学を教授した。松江藩の『御給帳』をみると、明治3年のところで修道館での「語学修行」「舎密学修行」「鉱物学修行」などと藩命で特別に修行した者がいたことが分かる。この時フランス語を学んだ者のなかには、フランスのリヨン大学に留学し、帰国後に東京帝国大学法科大学長、和仏法律学校(現法政大学)校長となる梅謙次郎や、関西法律学校(現関西大学)の創立関係者の一人となった渋川忠二郎らがいる。

修道館での仏学教育に並行して、松江藩は多数の若者たちを留学生として外国に派遣した。明治3年10月から4年にかけての時期で、修道館の仏学教授であった庄司郡平の子である金太郎(17才)を英仏両国に、元執政の小田均一郎(31才)、医師の息子である飯塚納(26才)を同じくフランスに、また東京開成所教授であった入江文郎(38才)をそれぞれフランスに派遣した。このほか井川訥郎(23才)と岡田好成(20才)を香港に、北尾次郎(16才)をプロシヤに派遣している。

なかでも入江文郎は、かつて幕府の蕃書調所に出役していたわが国フランス学の先覚者として知られており、フランス学制調査やお雇いフランス人の人選、日本人留学生の代表をつとめた。また松江藩からの依頼で211冊の書籍を700両で購入して藩校に送ることもしている。飯塚納の場合は、パリで西園寺公望や中江兆民と親しくなり、明治13年(1880)に帰国してからは西園寺が創立した東洋自由新聞社の副社長になって、自由民権を鼓吹した。

このように新しい時代にそなえて、松江藩士の子弟は藩校で外国語を学び、藩費で外国に留学して西洋の学問を習得することができた。恵まれていたというべきであろう。そして帰国後には中央で立身出世をしていった。

勝部貫一の遊学


これにたいして、町家に生まれた者は、悪戦苦闘しながら自力でもって新しい時代への道を歩んでいった。

維新の動乱のなかで、これからの学問には英語が必要と考えて、長崎で英語を学んだのち私費でアイルランドに留学し、帰国後は中央で活躍できる場があったにもかかわらず、父親への孝養のため出雲の今市に帰ってきて、乞われるままに英語教育にたずさわった勝部貫一の場合をみていきたい。

貫一は、弘化3年(1846)に今市で家塾を営む勝部正三郎の子として生まれた。父から儒学の手ほどきを受けて、10歳のときに上塩冶村(現出雲市)にあった伊藤宜堂の有隣塾に学び、13才でその塾長となる。『周易包蒙』50巻の大作をまとめたことで著名な宜堂は、鳥取藩に招かれて伯耆の溝口(現溝口町)に郷校を設立して移るが、18才の貫一も師に従って溝口に行く。その後宜堂の勧めで播磨の林田(現姫路市)にいた河野鉄兜に学び、さらに豊後国日田(現日田市)にある咸宜園に遊学、その舎長を勤めた。広瀬淡窓が開いた咸宜園には全国から俊秀が集っていた。

ところが長州戦争のあおりで日田を離れることを余儀なくされた貫一は、新しい時代の学問をしてゆくためには英語を学ぶ必要があるとして長崎に行き、幕府の英語伝習所を引き継いだ広運館洋学局に入学する。23才のときであった。ここで貫一は、新しい西洋学を学ぶはずであったにもかかわらず、戊辰戦争に出陣することになって、心ならずも東北地方を転戦する。1年後にようやく長崎に帰り、イギリス領事館の訳官に採用され、補助官であったクインについて英語を本格的に勉強することになる。そしてたまたま休暇で帰国することになったクインと一緒にアイルランドに行き、1年9カ月の私費留学をして、明治9年(1876)3月に日本に帰ってくる。

以上が貫一の学歴である。10才で宜堂の有隣塾に学んで以来、31才でアイルランドから帰国するまで、21年にも及ぶ貫一の学問を究める旅は、まさに波乱万丈であったといってよい。幕末維新の動乱期であっただけに、町人の子弟が学問の道を歩むことは人一倍の努力を必要としたのである。

包蒙義塾での英語教育


明治5年(1872)の学制発布により、翌6年からは小学校が開設され、これまでの家塾寺子屋は廃止されたことから、貫一の父の正三郎は今市夜学を開いていた。そうした時期に貫一はふるさと今市に帰ってきたのであるから、地域の有志は洋行がえりの貫一の新知識を活用することを願い、資金を出し合って県下で初めての英語学校を開設することにした。明治9年(1876)といえば、県立の松江師範に変則中学科が開設された年であり、第二科として英学4年の課程が設けられるのは11年からで、翌年には若槻礼次郎や岸清一が入学する。

県立の松江中学より2年も早く、英語の原書を教科書にして学ぶ私立学校が、包蒙義塾の名でもって出雲の今市に開校したのである。学校維持のため11名の者が345円を醵出して基金にした。基金の年利に生徒59名の月謝を加えた472円が学校経費である。教師の貫一には月給30円が支給された。松江中学で外国人教師として雇われたラフカディオ・ハーンの月給100円には及ばないが、当時の小学校長の平均が12円であることからすれば、それなりの敬意を払って待遇したといえる。

しかし明治30年(1897)島根県に提出した資料では、貫一の月給は10円になっており、基金からの繰入れもなく、授業料だけを財源にして運営されているが、明治42年(1909)には廃校となる。すでに31年には郡立簸川中学校が開設され、33年には県立移管となるにおいては、ユニークな英語教育包蒙義塾の役割も終ったとしなければならない。

安井好尚の大国英和学校


明治19年(1886)施行の中学校令が1県1中学校と定めたことから、浜田の県立第二中学が廃止された。身近なところに中学校がなくなったことから、邇摩郡大国村(現仁摩町)の大地主で殖産指導者であった安井好尚は、私財を投じて居村に大国英和学校を開設する。

設置目的では「英語ノ普通科及ヒ漢文ノ歴史ヲ教授シ…他日高等ノ学校ニ入ルノ階級タラシム」とうたい、選科に英学科、漢学科、数学科各2年の課程と高等小学科を置いた。石見地方にも、浜田中学校が26年に再置されたことから27年に閉校するまでつづけられた。

学問は身を立てるもとといわれたものの、学問をしてゆくには多額の経費が必要とされた時代である。遠隔の地であれば学費に加えて生活費が必要となるから、誰でもがというわけにはいかなかった。そのなかで県立学校のある松江は恵まれていた。「学ニ志セバ財産ニ貧シキ者モ亦タ坐シテ其学ヲ修メ、士族ノ子弟ハ旧藩主松平伯ノ保護ヲ被リ其志ヲ達スルヲ得」とは、県立学校廃止後の浜田に私立中学設立を呼びかけた県議の右田古文の言葉であるが、当時の教育機会の状況を表明しているといってよい。 (島根大学名誉教授/内藤正中)

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ハルマが刊行した「仏蘭辞典」
(島根県立図書館所蔵)
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『雲藩図書』の蔵書印
(島根県立図書館所蔵)

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