お城物語 七尾城(ななおじょう)   写真
県指定有形文化財医光寺総門

中世の豪族益田氏が本城とした七尾城は、中心市街地の南東、平野に面した丘陵上に築かれた山城である。住吉神社の背後の急峻で細長い山全体を城域とし、全長は約600メートル、周囲約2キロメートルの大規模な城跡で、昭和47年に県史跡に指定されている。

益田氏は平安時代後期に都から石見国司として下ってきた藤原国兼を始祖とし、建久年間(1190〜1199)頃に4代兼高が本拠を益田に移して以来益田氏を称した。七尾城下の益田地区はかつての城下町で、雪舟庭園のある医光寺や万福寺、染羽天石勝神社、暁音寺(増野甲斐守屋敷跡)、三宅御土居跡など益田氏と関係の深い社寺や遺跡も多く、道筋など当時の地割りも含め現在でも中世の面影を色濃く残している。

七尾城に関する記録は少ないが、南北朝時代の延元元年(1336)に当時の大手口「北尾崎木戸」で合戦があった記録が益田家文書に残る。益田氏は南北朝時代から石見守護大内氏に属していたが、天文20年(1551)に家臣陶晴賢が主君大内義隆を討つという事件が起こった。晴賢は厳島合戦で毛利元就に滅ぼされたが、室町時代から陶氏と姻戚関係にあった益田氏は毛利氏と対峙することとなり、その態度いかんによっては滅亡しかねない岐路にたたされた。この時に19代藤兼が七尾城を現存する規模に大改修したといわれる。その後益田氏は元就の次男吉川元春の仲介により毛利氏に降り、関ケ原の役の後には長門国須佐に移り、七尾城は廃城となった。

七尾城は廃城後400年を経た現在でも非常に良い状態で残っている。石垣は用いられていないが、尾根上には標高約118メートルの本丸跡を中心に大小40あまりの曲輪(土塁や塀などで囲まれた平らな区画)があり、敵の侵入を防ぐための土塁や堀切(尾根を遮断した空堀)などを備え、さらに本丸跡南側の曲輪との艮の出丸には毛利氏の攻撃に備えて築かれたと考えられる大規模な畝状空堀群(斜面に設けられた連続した竪堀)がある。また石積みの井戸跡である馬釣井も残る。大手(城の正面)は医光寺から真向かいになる谷部と思われ、、県指定医光寺総門は廃城後に七尾城の大手門を移築したものと伝えられている。

イメージ図
七尾城想像図(イラスト:香川元太郎)

城というと松江城や浜田城、津和野城のように高い石垣と天守閣を備えた姿を想像しがちだが、このような城郭は織田信長によって天正4年(1576)から築城された安土城に始まる。それ以前は、平時は山裾の館(益田氏の場合は三宅御土居)に居住し、城は合戦の時に立て籠もる砦としての性格が強く、七尾城もそのような中世山城の典型と考えられてきた。

しかし平成4年から始まった発掘調査では予想に反して本丸跡を中心に随所に礎石建物跡があったことが判明した。本丸跡の入口部分では4メートル×10メートルの瓦葺きの櫓門と考えられる礎石建物跡が完全な状態で発見され、この門の奥部にも建物の礎石が確認された。本丸跡に続く二の段でも礎石列や砂利の化粧敷区画が見つかり、主屋と書院の建物とともに小規模な庭園も備えていたらしい。さらに大手道を見下ろす二の段西側斜面の帯曲輪では5メートル×21.7メートルの長大な櫓が建っていたことが明らかとなった。

建物も日常生活に使う土器、瓦器、土師質土器(かわらけ類)はもちろんのこと、中国製の青磁、白磁、染付も多量に出土し、喫茶専用の瀬戸美濃焼きの天目茶碗や香炉もあった。これらの遺物の大半は16世紀後半のもので、毛利氏と敵対し、城の大改修が行われた時期と一致する。そしてこの成果を裏付けるかのように益田家文書にも19代藤兼が家臣を城に常駐させ、自らも大手の曲輪に1年隠居した後に下城したとの記録がある。

このように発掘調査によって戦国時代末期の七尾城には要所に防御や居住のための礎石建物が建ち並んでいたことが判明した。恐らく、藤兼、元祥父子が居住していたものと思われ、合戦時の緊急拠点という山城のイメージを塗り替える成果が得られた。さらに益田家にとって最大の危機であった毛利氏の脅威に対しても、調査で発見された遺構や遺物からは籠城を覚悟していたような様子はうかがえず、藤兼の胸中には巧みな外交交渉と海洋領主としての豊富な財力を背景に毛利氏とは和睦に持ち込めるとの確かな見込みがあったように思える。

(益田市教育委員会/木原 光)

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二の段西側の帯曲輪で発見された礎石建物跡 七尾城大手口
※資料・写真等は、益田市教育委員会提供
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