お城物語 浜田城
【写真】浜田城跡(本丸から二の丸にかけて階段状に石垣が残る)

浜田城は現在の浜田市中心部・浜田川右岸の通称亀山という独立丘陵にある。元和5年(1619)に古田重治が大坂の陣の功績により、石見国に約5万石・丹波国に約5千石の所領を与えられ、伊勢国(三重県)松阪より浜田に転封された。浜田藩の歴史の始まりである。城を作る場所を選定するにあたって益田・三隅・周布など中世以来の武士団の居城・居館を検分し、浜田の亀山に決められた。城の範囲は北は松原湾・東は浅井川までとし、内堀との間に侍屋敷を置いた。西と南は浜田川とし、浜田川左岸に浜田八町(紺屋町・新町・片庭町・蛭子町・門ケ辻町・檜物屋町・辻町・原町)と呼ばれる城下町が形成される。浜田川は南西二方向の守りとなり、東に松原・外ノ浦・西に瀬戸ケ島・浜田と良港をもつ地として選ばれたのであろう。意外にも江戸時代以前の浜田の様子はほとんど明らかにされていない。15世紀の中国の文献には「番馬塔はまだ」として出てくることからすでに港町が形成されていたことがわかる。また、浜田城以前に中世の城郭が存在した可能性も考えられている。

浜田藩主は改易による異動が多いのが特徴である。古田家二代30年・松平周防守家五代111年・本多中務家三代11年・松平周防守家四代68年・松平右近将監家四代31年と続く。城と城下町の基礎をつくった古田家は二代で断絶し、一時幕府領となった後に松平周防守家が入部し、松江の松平・福山の水野と並んで幕府の中国地方支配を固めることとなる。松平周防守家は五代・康福が寺社奉行を兼ねるようになり、上総国古河(茨城県古河市)に移った。この後、本多中務家が入封したが11年に再び松平周防守康福が浜田藩主となる。このとき康福は老中となり幕府の中心人物の一人となっていた。三代・康任は寺社奉行・大阪城代・京都所司代と進み、老中・老中首座となった。しかし他藩の相続争い(仙石騒動)により失脚し隠居となる。会津屋(今津屋とも)八右衛門らによる竹嶋(現在の鬱陵島)渡航事件の発覚もこの頃である。そして、天保7年(1836)に奥州棚倉(福島県棚倉町)へ転封となるのである。

松平周防守家の後に入封したのが松平右近将監家で、三代将軍家光の孫を祖とする徳川家の家門である。最後の藩主武聴は水戸徳川斉昭の十子で、将軍慶喜の弟にあたる。慶応2年(1866)の第二次長州戦争の際は大村益次郎指揮の長州軍の進攻を受け、益田・内村・大麻山・周布と藩領内で戦いが行われる。最後は城と城下を焼いて退き、飛地領に移って鶴田藩(岡山県久米町)となり明治維新を迎えることとなる。浜田は長州藩の預りとされ、明治時代に大森県・浜田県・島根県とかわっていくのである。

幕末の長州戦争の際に城と城下に火が放たれたが、天守が残っていた可能性がある。解体時の古写真や図面もなく、城の具体的な様相は不明確な点が非常に多い。現存の本丸・二の丸の石垣、「浜田城地目録」や各種絵図で当時の城のつくりがうかがえる。本丸に加え二の丸・三の丸・出丸(夕日の丸)があり、本丸は現在の山頂に高さ約14メートルの三層の櫓(天守)が建っていたとされ、階段状に石垣が残っている。石垣は明治から昭和にかけて補修工事が行われており、江戸時代のものと完全に一致するかは不明である。二の丸も一部石垣が残り、門・番所・蔵があったと考えられる。現在の浜田護国神社・青少年ホームの辺りである。山裾の三の丸には南御殿・役所・倉などがあり、出丸は現在は国道9号線により分断されている。中ノ門跡・裏門跡にはそれぞれ石垣が残り、大手口は人家により痕跡を留めていない。現在の登山道は後世につけられたもので、中腹の石垣に沿って本丸へ登る石段が築かれている。

現在の浜田城跡は城山公園として憩いの場となっている。現在の本丸への登り道にはかつて津和野藩屋敷・浜田県庁に使われた門が移築してある。護国神社と門の間に作家司馬遼太郎氏による碑文「浜田城」などを記した浜田藩追懐の碑が建てられている。碑文「浜田城」は「いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。」という一文でしめくくられる。浜田城は自然とともに古城の趣を漂わせ、歴史を現在に伝えつづけているのである。

(浜田市教育委員会/榊原博英)

浜田城絵図 浜田城下町鳥瞰絵図
浜田城絵図(浜田市立図書館蔵) 浜田城下町鳥瞰絵図(肥塚家蔵)

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