私と島根

苅谷俊介
苅谷俊介
Syunsuke Kariya

苅谷俊介(かりやしゅんすけ)
俳優。
大分県出身。1970年助監督を経て、『さらば掟』で映画俳優デビュー。以後、映画『里見八犬伝』『河童』、テレビ『西部警察』『NHK朝連続小説・あぐり』など多数出演。演技派俳優として活躍する傍ら、考古学の調査、研究、執筆活動に取組み、論文発表、全国各地での講演会、シンポジウム出演、古代史教室主催と意欲的に活動。著書に『考古学者への道』『まほろばの歌がきこえる』('99年2月出版)他多数。

  写真隠岐・島後より島前を望む

隠岐からのメッセージ
私の頭の中の島根県は、いつも大国主命と結び付き、そのまま出雲勢力となって古代史を形造っている。だから、講演の中で、鳥取県の遺跡、例えば羽合町馬ノ山古墳群や、鳥取空港南方の湖山池付近の桂見遺跡など、つい島根県のつもりで話し、あわてて訂正することがある。
どうも、旧因幡国から石見国までが島根県の範囲と重なってしまうのである。これがいかんともし難い私の古代出雲世界の捉え方の根底に潜んでいるのである。
こうした古代出雲世界の中で、あまり全国的に日の目を浴びていないのが、島根半島の沖合約40〜80キロに浮かぶ“隠岐”ではなかろうか。今、40〜80キロと記したのは、隠岐が180程の島からなる群島だからである。
この隠岐は、延喜式巻22によれば、一国をなしていたものと思われ、藤原宮出土の木簡からも、大宝令(701年)以前、既に「評制」が施行されていたことがわかる。
又、海士町の地名からも、日本海を制する海人族の一大拠点が隠岐にあったであろうことは想像に難くない。更に、同島の月無遺跡からは、弥生前期末の農耕文化が確認されている。
隠岐が一国としてあつかわれた背景には、こうした早くからの弥生農耕、海人族の活躍などがあったからであろう。“山淑は小粒でもピリリと辛い”のである。
北九州の一支、沖ノ島、そして隠岐。その地理的条件と呼称の共通性は、日本海文化と海人を考える時、素通り出来ない重要な問題を含んでいる。つまり、大陸文化の玄関は、北部九州だけではなかったということである。
朝鮮半島を経由する大陸文化の伝来ルートは、北部九州からの一系列だけではなく、海人族を介し、直接島根県の隠岐から古代出雲にもたらされているのである。大国主に限らず、須佐之男命の実態の解釈からもそれは推察出来る。
出雲の独立勢力は、こうして成長したのであろう。四隅突出墳はその独自性を充分に物語っている。
隠岐という重要な玄関がある限り、北部九州の影響より大陸との直接交渉ルートを考え、古代出雲を理解する必要があろう。それが海人族の一大拠点、隠岐からのメッセージである。


私と島根「加藤登紀子」
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