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人物歴史物語 愛しき妻を失ったばかりの人麻呂は、
突然、宮廷から石見行きを任じられた。
悲嘆に沈む人麻呂を迎えたのは、どこまでも碧あおい海。
そして、一人の美しい娘だった。

 万葉の歌人柿本人麻吊(人麿)が石見の国司に任じられたのは、大宝元年(701)以後のことである。国司といっても、守かみではなく、掾じょうか目さかんという下位の国司だったといわれる。持統・文武の両帝に仕え、数多くの優れた歌を残した宮廷歌人として、華々しい軌跡を描いた人麻呂が、一転して天ざかる鄙ひなの石見に下向しなければならなかったのは、実に謎めいている。

 人麻呂は宮廷に仕えていた時代、幾人かの妻を持っていたが、とりわけ軽かるの里に住む女を深く愛した。その女が死んだとき、人麻呂は泣血哀慟きゅうけつあいどうして悲しんだのであった。悲嘆の消えぬ間に石見へ下る命令が追いうちをかけた。すでに五十路いそじの坂を越えていたと思われる人麻呂にとって、この命令は大きな衝撃であり、さらに深い孤愁に沈むこととなった。

 しかし、下向した人麻呂は、目の覚めるような石見の碧い海を見たとき、思わず息をのんで立ちつくした。大和では決して見ることのない、鮮烈な海が広がっていたのである。断崖の海辺をいくつか越えると、やがて単調で荒涼とした都野津つのづの海岸へ来た。人麻呂には、限りなく広がっているこの単調な海浜が、奇妙に印象深かった。それは傷ついた魂をいやす不思議な海であった。

 着任してどれほどの時が経ったろうか。人麻呂は土地の長者の家で、美しい娘依羅娘子よさみのおとめに出会った。まだ17、8だろうか。いかにも清楚で従順な乙女だった。すでに老境にあった人麻呂は、情熱の残り火のありったけをかきあつめて、彼女との愛に燃えた。決して辺土でのかりそめの遊びではなかった。人麻呂の柔和なまなざし、しっかりと包みこむおおらかな情愛に、依羅娘子は身も心も投げ出し、ひたむきに人麻呂を求めていった。人麻呂は、虚栄と偽善に満ちた都の女とは全く違った彼女に、清冽せいれつな魂を感じたのであろう。彼女のみずみずしい肌に触れるたびに、ともすれば荒ぶる人麻呂の心は和められ、この異郷の地で知り合った若い妻に、若者のような生命の息吹きと、新鮮な感動、さらに詩歌への新たなる意欲をかき立てられたのであろう。もはや片時も依羅娘子のもとを離れたくないほど、人麻呂の愛は深まっていた。だが、こうした逢瀬もそう長くは続かなかった。

柿本神社にある柿本人麻呂画
柿本神社にある柿本人麻呂画
柿本神社
柿本神社(益田市)
 やがて四度使よどのつかいとして人麻呂は都へ上ることになった。

 石見の海 角つぬの浦廻うらみを 浦なしと 人こそ見らめ 潟かたなしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚いさな取り 海邊うみべをさして 和多にぎたづ豆の荒磯あいその上に か青なる 玉藻奥つ藻 朝羽握る 風こそ寄らめ 夕羽握る 浪こそ来寄れ 浪の芸むた 彼より此かくより 玉藻なす 寄り疾し妹を 露霜の おきてし来れば この道の 八十隅やそくま毎に 萬よろづたび かへりみすれど いや遠に里は放てかりぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思い萎しなえて 偲ぶらむ 妹が門かど見む 靡なびりこの山
(巻二−一三一)

 玉藻のなびくように荒に相抱いて寝たいとしい妻と、今引き裂かれていく。ああ、今一度依羅娘子が見たいと、やるせない別離の苦渋を切々と詠うたいあげる。
 依羅娘子も答えて詠う。

 な念おもいと 君は言えども 逢はむ時 いつと知りてか わが恋ひでらむ
(巻二−一四〇)

 いつまた会えるともわからないのに恋せずにはいられません。と涙をこらえながら袖を振りつづけるのだった。
 この別離の後、人麻呂と依羅娘女が再会したかどうかわからない。ところが「万葉集」は突如として人麻呂の死を告げる。

 鴨山の磐根いはねしまける吾をかも
 知らにと妹が待ちつつあらむ
(巻二−二二二)

 自らの命が断たれる苦痛より、ひとえに自分の帰りを待ちこがれる依羅娘子に、思いを馳せる生々しい執着の歌である。

 依羅娘子が人麻呂の死を知ったのはいつだったろうか。今や愛する人の死が、どうしようもない現実だとして、河原に身を投げ出して慟哭したのではないだろうか。人麻呂へのやみがたい愛憎の情を詠いあげる。

 直じきの逢あいは逢ひかつましじ石川に 雲立ちわたれ見つつ偲はむ
(巻二−二二五)

 依羅娘子が、その後どのような人生を送ったのか、それは今なお謎である鴨山の所在地と同じように、ようとして分からない。ただ明らかなことは石見の人々と風光が人麻呂の晩年を豊かに飾ったことである。(文:藤岡大拙)

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