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阿刀田 高 / 長谷川 堯
私と島根
   

「しっとりした黒い町」
 阿刀田 高

 

じめて私が、島根なる神々の故郷を訪ねたのは昭和54年の4月であった。妻と3人の子どもたちを連れて、そう、家族旅行であった。

 個人的な事情を記せば、この数日前に私は、日本推理作家協会賞を受賞して、−小説家としてやっていけそうだな−と、多少の自信を抱き始めていた。(直木賞をいただくのは、この年の7月である)

 さらに、長男が憧れの私立中学に入学して、家族旅行自体がご褒美の意味を兼ねていたのである。

 こういうときの旅が、気分の悪いはずがない。だから私は島根と聞くと、自分自身に対して、また子どもたちに対して、みずみずしい期待を抱いていた、あのころの風情がまっすぐによみがえって来てうれしく、そして少しこそばゆいのである。

写真
 それほど印象のよい土地なのに、その後はあまり訪ねる機会がなかった。ビール会社が主催する講演会で駆け足のように訪ねて、足立美術館だけ見て帰ったのは、6、7年前だったろうか。

 そして、今年3月、また妻と一緒に松江の土を踏んだ。出雲大社にもうで、いくつかの名所を巡り歩いた。安部榮四郎記念館まで車を走らせ、手造りの名品を入手した。

 松江の印象は、いつも黒い。

 悪い意味ではない。黒は最高の色でもある。理由はすぐにわかった。黒松のせいである。私のように関東で育った者は赤松に慣れている。街路に松の形を見れば、赤い松を想像してしまう。それが松江に来ると、みな、しっとりと黒いのである。黒塀も多く立っている。清潔な町並みとこの黒の気配がよく調和し、あとは宍道湖に日が沈んでくれれば申し分がない。

 今回は島根半島の海寄りの道を走った。桜の並木が見事である。海も鄙ひなびて、趣きが深い。

あとうだ たかし
P R O F I L E

あとうだ たかし 小説家
昭和10年東京生まれ。早稲田大学卒業。国立国会図書館司書を経て作家となる。代表作品は、直木賞受賞の短編集「ナポレオン狂」、吉川英治文学賞受賞の「新トロイア物語」。この他「朱い旅」「箱の中」「新約聖書を知っていますか」など。日本推理作家協会理事長。
 「桜のころに、また来てみるか」
 「本当に?きっとよ」
 妻に約束をさせられた。

 銭形平次捕物控では、石見銀山は毒薬の代名詞だった。小泉八雲は私が影響を受けた作家の一人である。隠岐の島はどんなところなのか。旅路に思うことは多い。

 ただ一つ、心残りは鳥取も含めてこの周辺には何度か来ているのに、伯耆大山の山頂を見たことがない。今度も駄目だった。この次、この次、人年に宿題が残っているのは、必ずしも悪いことではない。

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