今も大原街道入口にある道標
今も大原街道入口にある道標

街 道 の 旅
大原街道
山陰と山陽を結ぶ重要な商業ルートだった「大原街道」。
かつては、雲南地方の鉄・木材・木綿などが松江や広島に
運ばれ、奥出雲に向けては、鯖や鰺などの魚が
運ばれた街道でもあった―。


松江と出雲今市を結ぶ定期バスが、宍道の町中を通っていたころ、「大原街道入口」というバス停があった。街の西側にあり、ここが雲南方面への分岐点になっていた。加茂から木次の里方(さとがた)へ抜け、斐伊川を渡って三刀屋・掛合・頓原を過ぎ、赤名峠を越えて備後の布野に出る。昔から陰陽を結ぶ重要なルートであり、広島街道・備後街道などと呼ばれた。現在の国道54号は大体この街道をなぞったものである。大原街道はこの広島街道の一部で、宍道から大原郡の斐伊川までの間の呼称だったと考えられる。
もっとも、出雲国風土記にこのルートはなく、当時雲南方面に行く道は、玉造温泉から遠所(えんじょ)を越えて幡屋(はたや)川を下り、前原から立原・上佐世(かみさせ)・山方(やまがた)を通って里方の斐伊川河畔に出るコースであった。
この古代の雲南路が、いつごろ宍道から南下する現在のコースになったのか、明らかではないが、戦国時代、大内・毛利軍がすでにこのコースで、宍道畦地(うねじ)山に進出しているので、少なくとも中世後期には、大原街道は成立していたのである。
広島街道は陰陽連絡ルートとして、近代に至るまで政治的軍事的に重要な道路であったが、民間の人々はむしろ重要な商業ルートとして利用していた。事実、物資輸送の大動脈であった。雲南地方の鉄・木材・木綿などが、松江や広島へ運ばれた。一方、広島商人によって、古手(ふるて)・小間物類が持ち込まれた。もちろん、松江や今市の商人も、日用雑貨などをもって進出していた。
宍道の町は、山陰線が開通する明治の終わりごろまで、物資の集散地としてにぎわったものである。明治39年、出雲に遊んだ田山花袋は、宍道湖上から眺めた宍道の町を絶賛した。それは湖畔に白亜の土蔵が櫛比(しっぴ)し、夕日に赤く染まって、その影を湖水に落としている風景が、あまりに美しかったからである。
マップ 写真
当時の面影が残っている街道沿い
つぎへ

15号目次へ