人物歴史物語 出雲阿国
時は関ヶ原合戦前、出雲から京に上り、都の人々に安らぎを与えた阿国の踊り。さまざまな謎に包まれる彼女の踊りは、時を経ていまなお、語り継がれる。

西洞院時慶(にしのとういんときよし)の日記慶長5年(1600)7月1日の条を見ると、「この日、近衛殿の御屋敷で、晩まで出雲のヤヤコ踊りがあった。一人はクニ、もう一人は菊という二人の踊り子だった。一座の男女は十人ばかり」と記されている。
この記事のクニを出雲阿国とする研究者は多い。もしそうだとすると、阿国に関する確実な初見史料である。時あたかも、関ヶ原合戦の起こる2カ月半前。京の町には重苦しい緊迫感がただよっていた。ヤヤコ踊りはそんな京の人々に、しばしの安らぎを与えるものだった。
ヤヤコ踊りとは、最初は文字通り幼い少女の踊りだったろうが、やがては若い娘の小歌踊りとなり、さらに、そんなイメージとはまったく違って、黒い僧衣を着て鉦(かね)をうち、名号(みょうごう)を唱える念仏踊りをいうようになったといわれる。阿国が近衛殿で踊ったヤヤコ踊りは、このような念仏踊りであったと思われる。
それから3年後、徳川幕府の成立する慶長8年、阿国はカブキ踊りという新しい芸能をひっさげて、再び京の町に登場するのである。『当代記』という書物の中に、その時の様子が鮮やかに描かれている。
「このころ、出雲の巫女(みこ)阿国という女が、京にのぼってカブキ踊りを始めた。彼女はいい女ではなかったが、刀・脇差を携え男装して、茶屋の女と戯(たわむ)れるさまを巧みに演じてみせたので、洛中の民衆の圧倒的人気を博した。」
注目すべきは、阿国の芸がこの3年間に、ヤヤコ踊りからカブキ踊りに変わったことである。この場合、カブキ踊りとは、女が男装して茶屋の女と戯れてみせるような芸能である。カブキとは「傾く」ことで、当時の常識を逸脱した言動や表現をいう。舞台上で男装して戯れてみせる行為は、まさにカブキである。
ヤヤコ踊りからカブキ踊りへの発展は、舞踊から演劇への変化であるとともに、舞台が貴族の私邸から賀茂の河原や北野天神の境内のような戸外の広場へ移行し、観客が限られた貴族層から一般民衆へ変化したことを意味した。そこに阿国カブキの民衆性があった。
大社町・中村光政氏所蔵
大社町・中村光政氏所蔵
阿国の出自は謎に包まれている。京の出雲路あるいは京の周辺の出身ではないかという説、大和興福寺に所属する芸能座の一員という説などさまざまである。けれども、昔からいわれているように、出雲大社の巫女で、大社修復のため芸能をもって諸国を勧進して回ったという説も捨てがたいものがある。彼女はこの諸国遍歴のなかで、民衆の芸能に対する要求をしっかりと捕え、新しい芸を創作したに違いない。
しかし、カブキ踊りの成立には、もう一人、プロデューサーがいたのである。その人の名は名古屋山三郎(さんさぶろう)。山三郎は蒲生氏郷の小姓で、美男の誉れが高かった。長ずるに及んで、槍の腕前でも群を抜き、「槍師(やりし)々々は多けれど、名古屋山三は一の鑓」と歌われるほどだった。やがて山三は美作津山(みまさかつやま)の森忠政に仕えるが、恨みを買って浪人となり、京に上った。美男の槍士はたちまち洛中の人気者となった。
ヤヤコ踊りの名手阿国と美男の山三の結びつきは、ごく自然の成り行きだった。だが、二人の結びつきは、単なる遊び人と女芸人との関係ではなかった。愛を仲立ちとして芸を高め合う、創造的な人間関係であった。
慶長8年4月、山三郎は狙っていた井戸宇右衛門(いどうえもん)によって洛中で討たれた。阿国の驚きと悲しみはいかばかりであったろう。その悲嘆のなかで、彼女がまとめあげたのがカブキ踊りであった。
自分が男装して山三郎になる。もう一人の女を茶屋の女に仕立て、互いに情を交わす場面を演出する。阿国は決して観衆の享楽的ムードに迎合したのではない。自分が山三郎になり、相手の女(それは阿国の身代わり)と愛し合うしぐさを舞台の上で演じることによって、亡き山三郎への愛情を再生産し続けようとしたのである。
阿国のカブキ踊りへの山三郎の影響を否定する人は多い。しかし、ヤヤコ踊りからカブキ踊りへの変化の契機を、ほかに求めることは難しいのではなかろうか。(文:藤岡大拙)

出雲阿国の墓(大社町)
出雲阿国の墓(大社町)


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