私と島根   憧れの土地

出雲大社の巨大な姿の由来を知ったときから、島根はわたしの憧れの土地であった。もちろん、戦前に生まれたわたしには大国主命や素戔嗚尊(スサノオノミコト)の神話は非常に身近にあった。ギリシャやエジプトとも共通する人類の神話を聞くようなスケールに魅せられた記憶がある。しかし戦争に負けて、伊勢神宮からは救国の神風が吹かなかったあの夏の日から、わたしの日本の神々に対する想いは複雑な足取りになった。当然のように考古学や戦後の新しい世界史の視点から眺められた史論にゆだねるようになった。
その中から新鮮な感動でわたしに迫ったのは、現存する八丈(約24メートル)の高さを誇る出雲大社の始まりが、伝えられた記録を総合すると十六丈という信じられないほどの建造物であったとする、建築史家の福山敏男博士の推定復元図である。神話の途方もない世界にも匹敵するこの巨大な社を構想した島根とはいったいどんな土地であったのか、わたしの出雲幻想は果てしなく広がっていった。
現在の細君と結婚する前、人目につかずに旅行することになったとき、わたしは迷いもせず島根行きを主張した。夏の季節であった。山陰本線の列車は帰省や海水浴を目指す客であふれ、わたしたちはデッキの狭い通路に追い込められた。足元で断崖が深く海に切れ込んでいる景色を見た彼女はうれしそうな悲鳴をあげた。
神妙に出雲大社の拝殿に立ち、参拝した。社殿の裏に回り、改めて八丈の中空に輝く千木を見上げた。それからはあまねく出雲にいます神々の社巡りが始まった。その夜、投宿した宍道湖を望む旅館では誰ひとりわたしたちに気が付く人もなく、居心地の良い旅であった。やがて、近松門左衛門の浄瑠璃を原作にした『鑓(やり)の権三(ごんざ)』のロケで松江に泊まることになった。松江は松平不昧公(ふまいこう)の手になる明々庵や菅田庵(かんでんあん)でも知られるように茶道の盛んな城下町である。平和のうちつづく元禄を迎えた松江藩の若侍たちは出世のためには武道よりは茶道のほうが役に立つと考え、槍の名手という笹野権三郎も茶道指南の門をたたく。しかしそれが悲劇の始まりで、指南役が江戸に出て留守の間に女房と不義と呼ばれる関係に落ち込み、松江を出奔(しゅっぽん)してしまう……わたしは懐かしさもあって昔、妻と泊まったのと同じ宿をロケ隊に指定した。20年近く時が過ぎてもその宿の風情は変わってはいなかった。ところがお姐(ねえ)さん方が現れあいさつを交わすうちに、あのときはお忍びだったんでしょうというではないか。すっかりバレていたのである。彼女たちは、まったく未知の客としてわたしたちを応対していてくれたのである。

出雲大社本殿推定復元図(福山敏男博士復元)
出雲大社本殿推定復元図(福山敏男博士復元)


篠田正浩しのだ まさひろ
映画監督。昭和6年岐阜市生まれ。昭和28年早稲田大学文学部卒業、同年松竹撮影所に入所。昭和35年「恋の片道切符」で監督になる。大島渚、吉田喜重らと共に、松竹ヌーベル・バーグとして前衛的な作品を発表し、昭和41年松竹を退社、フリーとなる。翌年『表現社』を妻の岩下志麻と共に設立し、自主制作を始める。主な作品は「心中天網島」「沈黙」「はなれ瞽女おりん」「瀬戸内少年野球団」「少年時代」ほか多数。最新作は「写楽」。
篠田正浩

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