写真 日本海に沿って細長い島根県。朝鮮半島が近く、
古来、海を通じた交流が盛んに行われてきた。

海の山陰道
江戸時代には海沿いの町の港に「北前船」が往来し、
活気に満ち溢れていた。日本海は「海の山陰道」として
重要な役割を果たしてきたのである。
街 道 の 旅

日本海は荒海で、幼稚な船ではとても航海できないというのが常識であったが、どうもその常識はあやしくなった。というのは、古代においても山陰沿岸には、ずいぶん船が往来していたと考えられるからである。
朝鮮半島東北部、新羅(しらぎ)地方からの渡来人が、直接海を渡って山陰各地にやってきている。スサノオ・イソタケル(五十猛)父子神は新羅の曽尸茂梨(そしもり)から出雲に来たとの神話があり、現に大田市五十猛(いそたけ)には、スサノオやイソタケルを祭る五十猛神社・韓神新羅(からかみしらぎ)神社がある。また垂仁天皇の時代、大加羅国(任那)の王子ツヌガアラシトは、長門にやってき、そこから海伝いに出雲を経て北陸に至ったという。つまり、朝鮮からストレートな道と、北九州を経て山陰海岸を東進するコースがあった。そしてあの素晴らしい荒神谷の青銅器文化は、かかる渡来人によってもたらされたものである。
山陰と北陸との交流も頻繁であった。オオクニヌシと越(こし)のヌナガワヒメの結婚譚、そしてその娘ミホススミが美保社に祭られることなど、両者の海の交流を物語っている。
ところが、律令時代になると、陸上交通が整備され、わが山陰でも、役人の往来、年貢の貢進などは山陰陸道が用いられ、海の道は重視されなくなった。といっても、山陰の海上交通がなくなったわけではない。中世になると、見事によみがえる。
  この石に船を係留した。(温泉津町)
この石に船を係留した。(温泉津町)
その証拠は美保関の成立である。もともと美保浜、美保浦といっていたこの地が、美保関と呼ばれるようになるのは鎌倉中期のようである。美保浦に海関(うみのせき)が設けられたからである。海関が設置されたのは、この港に船の出入りが頻繁になったからである。風待ちのためだけではない。鉄等の産物を積み込む商業活動もやったにちがいない。
中世後期になると、美保関のような商業港が山陰沿岸の各地に出現した。16世紀終わりごろ、中国で成立した図書編という書物には、出雲の港として、番文字(石見の波根か)・山子介(石見の刺鹿か)・欽子渓(杵築)・斤流(宇竜か)・非瀬打(平田)・失喇哈文字(白潟)・也生忌(安来)・密和奴失記(美保関)、石見の港として、南高番馬(長浜)・番馬搭(浜田)・有奴市(温泉津)などが記録されている。これらの港は遠く明朝にまできこえ、朝鮮貿易の拠点でもあった。もちろん、北国船と呼ばれた北陸方面の商船も、しきりに山陰諸港に立ち寄って通商したのである。戦国期には、美保関・宇竜・温泉津が鉄や銀の搬出港として繁栄し、大内・尼子・山名・毛利・小笠原などの戦国大名が激しい争奪戦を展開した。
江戸時代、西回り航路が開拓されると、松前(北海道)や出羽地方と大坂が直結され、上り荷として海産物が上方へ、下り荷として木綿・塩・砂糖・米・紙などが松前方面に運ばれた。この民間の廻船を北前船といった。年貢米のような藩の物資は、お手船という公的な船が運んだ。北前船は山陰の諸港にも立ち寄ったが、それは単に風待ちのためではなく、その地の廻船問屋と取引も行った。浜田外(と)の浦の廻船問屋清水屋には、膨大な諸国客船帳が残されているが、それを分析してみると、買荷(清水屋が廻船から買った品)は米・塩・砂糖・種油・酒・干鰯・昆布など、売荷は扱苧(こきそ)・銑鉄・塩鯖・紙・生文字・瓦などであったという。幕末明治初頭の約30年間に、船員が清水屋で宿泊した廻船数は、102隻に達している。もちろん、他の廻船問屋にも船が入っているから、この時期浜田への北前船の入港はピークに達しており、海の山陰道交通は陸のそれを遥かに上回っていたと思われる。
静間神社にある絵馬(大田市) だが、やがて鉄道が出現すると、その座を譲らなければならなかった。山陰線は明治45年出雲今市まで完成する。ついで大正10年浜田まで、大正12年益田まで、下関に通ずるのは昭和6年のことであった。
日本海を活用することで活気づいていた山陰も、明治30年代後半から近代化の波に取り残され始め、「裏日本」と呼ばれるようになった。山陰が日本海を活用している間は、けっして取り残されてはいなかった。いや、萩藩のように時として歴史の表舞台に躍り出ることすらあった。このように見てくると、山陰の複権は日木海とのかかわりいかんであると言えるかもしれない。(文:藤岡大拙)
静間神社にある絵馬(大田市)

地図


14号目次へ