◆人物歴史物語
国東 くにさき
じへい
治兵衛
厳しい自然環境の中でわずかな農地を耕してきた石見地方の人は、
かつて農閑期に紙を製造した。水に強く丈夫な石州半紙。
国東治兵衛は、この石州半紙の製造工程を『紙漉重宝記』に記し、
その記録はのちに英、仏、独など世界に紹介されたのだった。

国東治兵衛(くにさきじへい)は、石見国美濃郡遠田村(現・益田市遠田町)の紙問屋の子として寛保3年(1743)8月3日に生まれた。寛政年間(1789〜1801)の終わりごろ亡くなったといわれているが没年は不明である。
当時、石見は耕地面積が乏しく、その上厳しい自然環境であり、農民はほそぼそと懸命に生きていた。天明6年(1786)石見を襲った凶作は、それまでの貧しい生活にさらに追い打ちをかけて、大飢饉をもたらした。飢えに苦しむ人々、疫病の流行で息絶えていく幼い子どもや老人たちを目のあたりに見た治兵衛は、何か手を施さねばという焦りの中で一つの決断が脳裏をかすめた。
もともと、幼少より好奇心が人一倍強く、探究心の深い治兵衛は、米、麦などの穀物以外に、この地で生産する特産品を探していた。治兵衛の祖先は、豊後国国東(くにさき)郡(現・大分県国東地方)から江戸時代の初めに、この石見にやってきて紙問屋を商ったと伝えられている。
その豊後国では、農繁期の間に湿地や水田に自生している藺草(いぐさ)や、栽培している藺草の茎を乾燥させて、畳表やござを生産していた。治兵衛は、話に聞いていたそのことを思い出し、早速豊後から藺草の苗を持ち帰り、遠田村の不毛の湿地や田んぼに植え付けた。
初雪の降るころに植え、土用の暑い盛りに刈り取る藺草は、大変厳しい労働を伴い、子どもや年寄りなど、総出で働かなければならなかった。しかし、治兵衛は副業として、熱心に藺草の栽培と畳表の製造を村人に教えた。こうした努力が実って、次第に地域に広まっていった。やがて、数々の失敗を克服して、"遠田表"の名は全国に広まり、藩も積極的に取り組んでいった。

「紙漉重宝記 全」
「紙漉重宝記 全」
(島根県立図書館所蔵)

「紙漉重宝記 全」より
「紙漉重宝記 全」より
紙漉きの工程、道具などが分かりやすく、絵で解説してある。

治兵衛の名を全国に高めた最大の業績は、寛政10年(1798)に出版した『紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)』である。紙問屋である治兵衛は、楮(こうぞ)の植育から、紙の製造などの全工程を作業ごとにわかりやすく解説した。また、自らも下絵をかき「諸国名勝図会」や「摂津図絵」などで著名な丹羽桃渓に補筆してもらい、素晴らしい図引の『紙漉重宝記』を完成させた。
石西地方では、製紙業は室町末期のころより農閑期の仕事として普及しつつあった。江戸中期以降になると、江戸や大坂で出版物の増加に伴って、紙の需要は増大し、農家の副業として盛んに行われるようになった。そのため藩は、年貢米の代わりに紙を納めさせた。水に強く、丈夫な紙は石州半紙と呼ばれ、大坂商人の間で大層評判であった。藩の「間仕事取り調べ係」である治兵衛は、「製紙とその販売は、国益増進の最たるもの、製紙の祖神柿本人麿の祖霊も嘉するところ、婦女子ともども精励すべし」と殖産に心血を注いだ。
治兵衛は、この『紙漉重宝記』の序文に、
一、紙漉きを生業としてはじめたい人の案内書になればと願う。
二、紙を扱う商人に読んで欲しい。彼らが紙漉きに携わる人たちの苦労を知らず、粗末にしているのは嘆かわしいので。
三、この地方の女、子どもに紙漉きを教えたい。それ故、全工程をわかりやすい絵で表わしてある。
と、その目的を述べ、紙漉きを教え広めたという。そこには治兵衛の熱い思いが込められている。
特産品と称される多くの産物は、各藩においてその技術は秘法とされ、公に漏れてないのが掟とされ、極度に警戒したのだった。そんな中にあって、この『紙漉重宝記』は技術の独占でなく、むしろ多くの人に広めたい、そのためには、何よりも親しみやすく、わかりやすい本でありたい。挿絵の中の話し言葉は石西地方の方言を使い、生きた話し言葉として、よりなじみやすく読む者に感じられる。
しかし、この著書は、長い間埋もれたままになっており、人目にふれることがなかった。大正14年、不完全ながら複製され英語、フランス語、ドイツ語などに翻訳され、昭和47年原本どおりに復刻されたのだった。
現在、治兵衛の業績をたたえる頌徳碑が、遠田の町を見下ろせる小高い丘小丸山(こまるやま)にひっそりとたたずんでいる。(文:藤岡大拙)

現在の石州半紙
現在の石州半紙
  治兵衛の頌徳碑 益田市遠田町にある
治兵衛の頌徳碑
「国東治兵衛翁之」より
(島根県立図書館所蔵)


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