明治時代に活躍した人物
西周(にし・あまね)(1829〜1897) 文政12(1829)年、津和野藩の外科医西時義の長男として生まれる。 明治維新後、陸軍省に勤めながら福沢諭吉や森有礼と明六社を結成し、洋学の学問思想の紹介や日本人の精神の近代化を啓発した。 「哲学」「主観」「客観」など数々の訳語を定着させたのみならず、『百一新論』『百学連環』などで、哲学による万学の統一と一大学問体系の樹立をめざした、近代日本の哲学の祖であった。 |
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広田亀治(ひろた・かめじ)(1839〜1896) 篤農家。松江藩荒島(現安来市)に生まれる。 明治8(1875)年、病気(イモチ病)や害虫に強くコメの質の良い品種「亀治」を生み出し、県内はもちろん、中国地方、近畿地方にまで普及した。このように広範囲に渡って作られた稲の品種は当時ほかに例を見なかった。コメ以外に野菜の品種改良も研究した亀治は、大変人柄がよく、米や野菜の種を快く人々に分け与え、人々からは尊敬酒感謝されていた。 JR荒島駅近くには、農作業姿の亀治の銅像が建てられている。 |
小泉八雲(こいずみ・やくも)(ラフカディオ・ハーン)(1850〜1904) ギリシャ出身。明治23(1890)年、40歳の時来日し、松江の中学校で英語を教える。翌年、小泉セツと結婚。同29(1896)年に日本国籍を得て、小泉八雲となる。 八雲は、1年2カ月滞在した松江をこよなく愛し、多くの人に「ヘルン先生」と親しみを込めて呼ばれ、慕われていた。 この間、山陰の民族・風物を取材し、明治27(1894)年に『知られぬ日本の面影』(英文)として出版し、この中で明治時代の出雲地方の様子を詳しく紹介した。『怪談』など彼の著書には日本への深い愛情と理解が垣間見られる。 |
森鴎外(もり・おうがい)(1862〜1922) 文久2(1862)年、内科医森静雄の長男として津和野町に生まれる。本名は林太郎。 明治7(1874)年に東京医学校(現東京大学)に入学し、卒業後は二等軍医として帝国陸軍に入り、翌年には陸軍省からドイツに留学した。 ドイツ留学中に西洋の合理主義と自我に目覚め、明治21(1888)年に帰国してから文筆活動に入る。2年後、小説『舞姫』で作家として文壇に登場。以来、『雁』『高瀬舟』『山椒大夫』など、多くの名作を執筆。晩年は、史伝小説と呼ばれる歴史考証学の分野を開拓。ほかに翻訳や戯曲など多くの分野で才能を発揮した。 大正11(1922)年7月、享年61歳で没するが、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺書にあり、郷土津和野への思いをそこにみることができる。 |
梅謙次郎(うめ・けんじろう)(1860〜1910) 法律学者。松江市に生まれる。 フランス、ドイツに留学し、民法を研究。30歳で帰国後、東京帝国大学法科大学教授、学長として、民法や商法を講義した。また、和仏法律学校(現法政大学)では、校長として、中国留学生教育に力を注いだ。 明治23(1890)年『民法典論争』という法律論争に参加する。その結果、謙次郎ほか2名によって、新民法が立案、公布された。明治時代の民法、商法の編纂に指導的役割を果たした。『民法講義』『民法原理』などを著わし、「民法の父」と言われる。 松江名誉市民として、松江プラバホール前に顕彰碑がある。 |
島村抱月(しまむら・ほうげつ)(1871〜1918) 演劇運動家。日本近代劇の普及・大衆化に貢献。金城町(現浜田市)に生まれる。 坪内逍遥を助けて文芸協会を創立した後、早稲田大学主幹となって自然主義文学を推進。イプセンの『人形の家』を始め海外戯曲を翻訳紹介した。その後、女優松井須磨子とともに芸術座を結成。ヨーロッパの近代劇を上演して新劇の発展に尽くした。『復活』の舞台の劇中歌『カチューシャの唄』はあまりにも有名。 ヨーロッパの近代劇を日本の劇団に移し新劇を普及させた新劇運動の開拓者であり、近代日本演劇の父と言われる。 浜田市の城山公園に記念碑、抱月公園に顕彰碑、浄光寺に墓がある。 |
秦佐八郎(はた・さはちろう)(1873〜1938) 医学者。美都町(現益田市)に生まれる。 明治31(1898)年、大日本私立衛生会の伝染病研究所に入り、北里柴三郎所長の指導を受けることになる。ここでペスト菌を研究、以後、ペスト予防法の制定、ペスト免疫血清の創製に尽くした。同43(1910)年ドイツに留学中、エールリヒ博士との共同研究で梅毒の化学療法剤サルバルサンを発見した。 大正3(1914)年北里研究所開設と同時に入所、研究と臨床に全力を尽くした。その後、慶應義塾大学医学部の細菌学の教授を経て、晩年は熱帯地方の伝染病研究に努力した。 |
渡部お糸(わたなべ・おいと)(1876〜1954) 安来節家元名人。初代お糸。一地方民謡に過ぎなかった安来節を広め、日本の代表的な民謡に育て上げた最大の功労者。安来市に生まれる。 当時、仕事唄、座敷唄としか評価されなかった安来節を誇りうる民謡にしようと励んだ。その活動が認められ、文部省役人から郷土芸能として保存育成するよう激励される。明治44(1911)年、三味線の福島豊市を会長に正調安来節保存会を結成。大正5(1916)年、全国俚謡名人大会で主席となり、翌年東京公演で爆発的人気を博した。その後、お糸一座を結成。全国各地を巡業し安来節を広めた。 |
(出典)
- しまね図鑑(2000年・島根県広報協会発行)
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