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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第23回

森幸安の「對馬輿地図」を誤読した韓国聯合通信の報道について

 

 10月28日、韓国の聯合通信電子版は、「"対馬島は韓国領"昔の地図2点初公開」と報じ、対馬島を韓国領とする古地図が初めて公開されたと伝えた。その二点の古地図は、森幸安が宝暦6年(1756年)4月10日に画いた「對馬輿地図」と、金正浩が1834年に制作した「青邱図」という。

 報道によると、森幸安の「對馬輿地図」には「釜示准朝鮮国地之例則府郷郡令之470里」(対馬島の府・郷・郡はすべて法的には朝鮮国釜山に准じており、距離は470里である)と記され、金正浩の「青邱図」には、「本隷新羅水路四百七十里在東莱府之東南海中至實聖王七年戊申倭置営於此島」(対馬島は本来、新羅領に隷属しており、實聖王七年まで東莱府に属した島として、四百七十里の距離、東南側の海にある)と記されているので、対馬島は韓国領なのだと言うのである。

 だが二つの古地図を発見したとする釜山外国語大学キムムンギル教授の漢文解釈には、誤謬がある。聯合通信の電子版に添えられた画像は精度が低く、判読ができない箇所があるが、少なくとも「470里」(「距離は470里」)とは記されておらず、「対馬島の府・郷・郡はすべて法的には朝鮮国釜山に准じて」いるとも、記されてはいないからだ。

 そこで画像の精度が低い中で、改めて付記を判読してみると、「對馬輿地図」には次のように記されている。(後日、訂正する予定でいるが、暫らくは次のように判読しておいた。)


 「所図、輿地図、有郡郷之界分。當對馬図者、上縣・下縣二郡耳。按彼国之□□□、□釜?。亦准朝鮮国地之例、則府郷郡□之四品歟」(図にした所の輿地図には、郡郷の境界があり、この對馬国には上縣と下縣の二郡があるのみである。按ずるに彼の国の□□□は□釜。また朝鮮国地の例に准えれば、すなわち、府、郷、郡、□の四種であろうか)


 森幸安の「對馬輿地図」では、対馬島が韓国領であるとも、釜山から対馬島までの距離が470里とも記されてはいない。

 それに森幸安は宝暦4年(1754年)、「對馬輿地図」に先立って『日本分野図』を作図しているが、そこでは朝鮮から対馬島までの距離が「此ノ朝鮮ノ釜山浦ヨリ對馬ノ鰐ノ浦へ二十五里」と明記されている。それを「470里」とするのは、金正浩の「青邱図」等で「水路四百七十里」としていることから、恣意的に解釈したものであろう。

 聯合通信は、対馬島を韓国領とした地図を発見と伝えたが、その報道には全く根拠がない。なぜなら森幸安は、『日本分野図』や『日本分土図』(1755年)で対馬島を日本領としており、その一部を構成する「對馬輿地図」で、対馬島を朝鮮領とする理由はないからである。キムムンギル教授は、何を根拠として対馬島を韓国領とするのであろうか。「對馬輿地図」には、対馬島を韓国領とする記述はどこにもないのである。

 根拠がないまま偽りの報道をしているのは、金正浩の「青邱図」に対する解釈も同じである。キムムンギル教授は、「至實聖王七年戊申倭置営於此島」を解釈して、「實聖王七年まで東莱府に属した島」としているが、原文には「東莱府に属した島」とする表現はない。この金正浩が孫引きした「至實聖王七年戊申倭置営於此島」の記述は、『三国史記』の記事に由来し、そこでは實聖尼師今の七年(408年)春二月、日本が對馬島に軍隊を駐屯させたとするだけで、対馬島が「東莱府に属した島」とは記されていない。

 この『三国史記』の記事が注目されたのは、朝鮮が対馬島に侵攻した1419年、卞季良が「諭対馬州書」を書き、その中で「對馬為島、隷於慶尚道之鶏林。本是我国之境。載在文籍」(対馬の島たる。慶尚道の鶏林に隷う。本これわが国の境。載せて文籍に在り)として、「文籍に在り」としていることによる。

 だが朝鮮軍を率い、東征に向かった李従茂は敗績し、朝鮮では宗主国の明に無断で軍隊を動かした事実が明に知れることを恐れていた。対馬征伐どころか、朝鮮軍は日本側の反撃で撤退を余儀なくされていたのである。韓国側では島根県が制定した「竹島の日」に対抗し、朝鮮軍が馬山から出航した6月19日を「対馬の日」としているが、これは敗績の事実を隠蔽するものである。

 一方、1421年4月、対馬の宗貞盛の使者仇里安は、朝鮮側から「本島の慶尚に隷う、古籍昭然」と詰問されたのに対し、「對馬島、日本の辺境、対馬島を攻めるは、これ本国(日本)を攻めるなり」と反論している。

これが『東国輿地勝覧』(1481年)では、卞季良の「諭対馬州書」を踏襲する形で「舊隷我鶏林。未知何時、為倭人所據」(もと我が鶏林に隷う。いまだ知らずいつの時、倭人のために拠る所となるを)と記載され、文献的根拠が示されないまま、対馬島は新羅に隷属していたことになるのである。

 その後、朝鮮では、『三国史記』の「新羅本紀」實聖尼師今の七年春二月条に「王聞倭人於對馬島置営。貯以兵革資粮。以謀襲我」(王、倭人の対馬島に営(兵営)を置き、貯うるに兵革資粮を以てし、以て我を謀り襲わんとするを聞き)とあることを根拠に、対馬島は新羅の領土とされるのである。

 だが同じ『三国史記』の「新羅本紀」實聖尼師今元年三月条では、「奈勿王子未斯欣」を倭の人質としたとしており、同四年夏四月条では「倭兵来たりて明活城を攻める」と、慶州の明活城が倭の襲撃を受けた記述があり、六年春三月条では「倭人東辺を侵す。夏六月、また南辺を侵す」としているのである。實聖尼師今七年八月、倭が対馬島に兵営を設置する以前から、新羅は倭の攻勢に晒されていたのである。

 それをキムムンギル教授は、「至實聖王七年戊申倭置営於此島」を解釈して、「實聖王七年まで東莱府に属した島」としているが、これは歴史を無視した作文に過ぎない。韓国の聯合通信は、何ら根拠のない恣意的解釈を無批判に配信していたのである。

(下條正男)


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