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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第21回

朴炳渉氏の「下條正男の論説を分析する」(「独島研究」第4号)を駁す

 

 領土問題を論ずる際は、その領有権を主張する歴史的根拠が問題となる。そのため韓国側が竹島を韓国領とする論拠としてきた『東国文献備考』の分註「輿地志に云う、欝陵・于山、みな于山国の地。于山は倭の所謂松島(現在の竹島)なり」が、編纂時の1770年に改竄されていた事実は、韓国側にとっては致命的であった。韓国側は歴史的根拠がないまま、竹島を侵略したことになるからだ。それも2008年2月、外務省が刊行した小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』に改竄の事実を記載し、今日に至るまで韓国側からの説得力のある反論がなされていないということは、韓国側も改竄の事実を認めたからなのであろう。

 事実、韓国側及び韓国側に同調する人々の言動を見ると、島根大学名誉教授の内藤正中氏は『竹島=独島問題入門‐日本外務省「竹島」批判‐』の中でそれを「異説」とし、在日独島研究家を自称する朴炳渉氏も、「外務省は下條の論説をまったく検証することなく引用したが、そもそも下條の論説は誤りである」(「独島研究」第4号・韓国嶺南大学校編)とするだけで、歴史研究とはまったく異なる次元で反応していた。その典型が朴炳渉氏の「下條正男の論説を分析する」(「独島研究」第4号)である。朴炳渉氏は、「下條が書いたもの」は、「『諸君』、『正論』など右翼系の二大雑誌に発表されることが多いので、専門家以外からも注目をあびている」とし、結語では「下條の流儀や主張は島根県や、右翼系の雑誌『正論』や『諸君』で高く評価されている。そうした彼の主張が右翼以外にどこまで受け入れられるのか、今後も注意深く見守る必要がある。また、彼と外務省との関係が今後どのように展開するのかも興味深いところである」と結んでいる。

 朴炳渉氏の流儀によれば、外務省がまとめた小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』もまた右翼の所作となるのであろう。だが歴史研究に求められるのは、正当な文献批判を通じて、より客観的な歴史の事実を明らかにすることにある。朴炳渉氏のように私の出身大学と奉職先の拓殖大学を「右寄りの大学」とし、私に「少数派」、「運動家」、「右翼」といったレッテル貼りをすることで、歴史研究そのものまでも否定したように錯覚することではない。

 そこで今回は、朴炳渉氏が「独島研究」第4号に発表した「下條正男の論説を分析する」について、さらに次回は、鳥取短期大学の『北東アジア文化研究』第28号に掲載された朴炳渉氏の「明治政府の竹島=独島認識」を中心に、その真偽を糾すことにした。

 果たして朴炳渉氏が「下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかった」というように、『東国文献備考』の分註には改竄の事実はなかったのであろうか。今回の実事求是では、朴炳渉氏の立論の問題点と誤謬を指摘することにした。


(1)『東国文献備考』(「輿地考」)の解釈

 これまで韓国側は、竹島の領有権を主張する際に、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を根拠としてきた。分註には、「輿地志に云う、欝陵・于山、皆于山国の地。于山は倭の所謂松島(現在の竹島)なり」とあるため、韓国側では文献上の于山島を無批判に今日の竹島と読み換え、「欝陵・于山、皆于山国の地」から竹島を欝陵島の属島として疑わなかった。

 だが韓国側がそれを論拠とするためには、分註に引用された『東国輿地志』と『東国文献備考』に対する文献批判をすべきであった。しかし1950年代から始まった日韓の論争では、『東国文献備考』の分註に引用された『輿地志』は問題にされず、『東国文献備考』の編纂過程を検証するといった、基本的な研究すらなされていなかった。それが問題にされたのは1996年、韓国側が竹島に接岸施設を建設し、竹島問題が再燃して以後である。

 この時、『東国文献備考』の引用文と、その底本となった申景濬の『疆界誌』に引用されていた柳馨遠の『東国輿地志』の文言が異なる事実が指摘されている。『東国文献備考』(1770年)には、「輿地志に云う、欝陵・于山、みな于山国の地。于山は倭の所謂松島(現在の竹島)なり」とあるが、『東国輿地志』(1656年)には「一説に于山、欝陵本一島」とあったからである。ではどの段階で『東国輿地志』の文言が書き換えられたのか。それは『東国文献備考』の底本となる申景濬の『疆界誌』(1756年)で、「一則倭所謂松島而、蓋二島、倶是于山国也」(一つはすなわち倭の所謂松島にして、けだし二島ともにこれ于山国なり)とされ、于山島が竹島とされてからである。

 もちろん現存する柳馨遠の『東国輿地志』には、于山島を「倭の所謂松島」とする文言はない。それを『東国文献備考』の分註で、于山島を「倭の所謂松島」としているのは、『東国輿地志』からの引用文が改竄され、虚偽の事実が捏造された証である。

 それを朴炳渉氏は、「下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかった」とするが、その根拠はどこにあるのだろか。朴炳渉氏は、それを次のように説明している。


 「『東国文献備考』の場合は、「欝陵・于山、皆于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は、申景濬の見解であることが『輿地志』からわかる。もちろん、下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかったのである」


 だがこの僅かな文章の中でも、朴炳渉氏は二つの失敗を犯している。「『東国文献備考』の場合は、「欝陵・于山、皆于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は、申景濬の見解である」とした部分である。

 朴炳渉氏は『東国文献備考』の分註で「于山島を倭の所謂松島」とあるのは、「申景濬の見解」によるものと、みずから改竄の事実を認めているからだ。語るに落ちるとは、このことである。かくして朴炳渉氏は、「下條正男の論説を分析する」を論述する中で、竹島を占拠してきた韓国側の根拠までも潰していたのである。

 朴炳渉氏の二つ目の失敗は、「『東国文献備考』の場合は、「欝陵・于山、皆于山国の地」が引用文」と、したことである。この『東国文献備考』の分註(「欝陵・于山、皆于山国の地」)は、韓国側にとっては極めて重要な意味を持ち、竹島を欝陵島の属島とする根拠であった。そのため竹島は六世紀から韓国領であった、と主張してきたのである。

 だがその「欝陵・于山、皆于山国の地」に近い記述は、柳馨遠の『東国輿地志』には存在しない。申景濬が編述した『疆界誌』の按記に、「蓋し二島倶に是于山国なり」(おそらく二島はともに于山国であろう)とある一文が、「欝陵・于山、皆于山国の地」の論拠である。従って『東国文献備考』の分註にある「欝陵・于山、皆于山国の地」も、柳馨遠の『東国輿地志』とは関係がなく、『東国文献備考』の編纂時に、洪啓嬉が申景濬の『疆界誌』の按記を潤色、作文(注1)したものである。それを朴炳渉氏は、「下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかった」と詭弁を弄しているが、それは根拠のない妄言である。

 歴史問題としての竹島問題は、申景濬の『疆界誌』に対する文献批判から始めねばならないが、朴炳渉氏の「下條正男の論説を分析する」では、申景濬の『疆界誌』に対する文献批判にまで研究が進んでいない。それは朴炳渉氏が、「下條は何々である」式のレッテル貼りで反論を試みる限り、論争の域には到達しないからである。それは朴炳渉氏が「半月城通信」というサイトで「下條正男批判」を行い、2007年度には韓国の政府機関である韓国海洋水産開発院の研究助成を受け、「安龍福事件に対する日韓間の意見対立の分析」、「下條正男の主張批判」等を研究課題としたように、その目的が政治的宣伝にあるからである。

 すでに歴史研究としての竹島問題は、申景濬の『疆界誌』(1756年)に対する文献批判にまで進み、申景濬の『疆界誌』には底本が存在した事実も明らかにされている。それが李孟休の『春官志』(1745年序)である。『疆界誌』の「安龍福伝」と「鬱陵島」条は、『春官志』から「欝陵島争界」を剽窃したもので、その中で、申景濬が『疆界誌』に按記を書き、私見を加えた箇所が後に『東国文献備考』の分註となるのである。「下條正男の論説を分析する」とした朴炳渉氏であるが、なぜ朴炳渉氏は李孟休の『春官志』に対する立論を避けたのであろうか。申景濬が按記を挿入した李孟休の『春官志』(「欝陵島争界」)の当該箇所では、次のように于山島を欝陵島としていたからである。


 「蓋しこの島(欝陵島.注下條)、其の竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯あるが故に三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、礒竹島に至りては、皆音号転訛して然るなり」


 この記述からも明らかなように、李孟休の『春官志』(「欝陵島争界」)では、于山島を欝陵島としていた。そこで申景濬は、『疆界誌』を編述する際に、その当該箇所に「愚按、輿地志云、一説于山、欝陵本一島。而考諸図志二島也。一則倭所謂松島而蓋二島倶是于山国也」(按ずるに、輿地志に云う、一説に于山、欝陵もと一島。しかるに諸図志を考うるに二島なり。一つはいわゆる倭の松島にして、けだし二島、ともにこれ于山国なり)」とする按記を挿入し、私見によって「于山島を倭の松島」とする虚偽の事実を捏造したのである。

 では申景濬はなぜ、于山島を「倭の松島なり」としたのであろうか。それは1696年、日本に密航し、鳥取藩によって加露灘から追放された安龍福が、帰還後の取調に対して「松島は即ち子山島(于山島)、此れ亦我国の地」と供述し、みずから鳥取藩の藩主と交渉して「欝陵島と松島が朝鮮領になった」と偽証したことによる。韓百謙の『東国地理誌』(1615年)や李孟休の『春官志』(1745年)等で欝陵島とされていた于山島が、「倭の松島」となる端緒は、安龍福の偽りの供述にあったのである。

 安龍福の供述を無批判に踏襲した申景濬は、『東国文献備考』では結果的に引用文までも改竄して、事実無根の「于山島=松島」説を蔓延させてしまったのである。同時代の鄭東愈は、申景濬を「独善、付会の説をなし、往々我より古となす。これ其の短なり」(独善に走って勝手に事実無根の説をつくり、自説を昔からの正しい根拠とする。これが申景濬の短所である)と酷評するが、『疆界誌』に対する文献批判を怠った朴炳渉氏には、歴史の事実が見えていないようである。その朴炳渉氏が、「下條正男が宣伝するような史書の「捏造」や「改竄」はなかった」とするのは、文献批判を怠り、史書を恣意的に解釈する者の妄言である。


(注1)『東国文献備考』の編纂に関連し、『承政院日記』の英祖四十六年閏五月二日条には、「景濬草創して、啓嬉潤色す」と記されている。景濬は申景濬のこと。啓嬉は洪啓嬉を指す。また洪啓嬉が『東国文献備考』の編纂に関わっていたことは、安鼎福の『順庵先生文集』巻五、「洪判書に与ふるの書」でも確認ができる。『春官志』については、拙稿「『竹島紀事』と『春官志』覚書」(「国際開発学研究」第二巻第四号・勁草書房)参照のこと。

(下條正男)


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