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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第16回

歴史的根拠を欠いた「独島の月」について

 

 韓国の慶尚北道議会は、島根県議会が2005年3月17日に制定した「竹島の日」に対抗し、同年7月4日、10月25日を「独島の月」とする条例を制定した。根拠となったのは、竹島の島根県編入よりも五年早い、光武4年(1900年)10月25日付けの「勅令第41号」である。その第二条に、欝島郡の行政管轄区域が「欝陵島全島と竹島石島」と定められているため、独島と発音の近い石島は独島に違いないので、独島は日本よりも早く韓国領となっていたとしたのである。韓国側ではその理由を、欝陵島には全羅道出身者が多く、全羅道の方言で石島(トルソン)と独島(トクソン)の発音が近いので、独島で漁労活動をしていた欝陵島漁民の呼称が、勅令では石島と表記されたとしたのである。だがそのためには、独島の呼称がいつから始まり、独島での漁労活動がいつから行われたのか、実証しておく必要があった。歴史的根拠を示すことが出来なければ、憶説に過ぎないからである。

 現に1903年刊の葛生修亮の『韓海通漁指針』では、後に竹島となる無人島について「韓人及び本邦漁人は之をヤンコ島と呼」称したとしており、独島の前身は石島ではなく、ヤンコ島であった。そのヤンコ島(竹島)が独島と呼ばれるのは、1904年頃。1904年9月25日付の軍艦新高の日誌には、「韓人之を独島と書し、本邦漁夫等略してリアンコ島と称せり」と記されている。これは1904年からリアンコ島でのアシカ猟が本格化し、日本人に雇われた欝陵島民がリアンコ島に渡ったからである。従って1904年から始まった独島の呼称が1900年の勅令に影響を与え、独島が石島と表記されることはあり得ない。「独島の月」には歴史的根拠がなく、韓国側の石島=独島説は荒唐無稽な憶説に過ぎないのである。

 それは「勅令第41号」が発布される三日前、内部大臣の李乾夏が提出した請議書が証左となる。欝島郡となる欝陵島は「縦八十里ばかり、横五十里と為す」と明記され、欝陵島の特産は「馬鈴薯、大麦、大豆、小麦」とされているからだ。当時、欝陵島の主産業は農業で、漁業は欝陵島周辺での採●(アラメ採り)程度であった。それは欝陵島の郡昇格に繋がる1900年6月の視察官禹用鼎の視察録が証明している。禹用鼎は『欝島記』の中で、「所種は則ち大小麦、黄豆、甘藷」、「水利は則ち採●を主と為す」とするように、欝陵島では農業が営まれ、漁業は採●が行われていただけである。欝陵島の島民が独島に渡るのは、勅令が発せられた4年後、リャンコ島でアシカ猟が始まってからである。

 さらに禹用鼎が視察した範囲は、「周廻一百四五十里」の欝陵島一島に限られ、竹島(独島)には渡っていない。それは1883年に欝陵島踏査をした李奎遠が、欝陵島を「周廻一百四五十里」としたように、すでに欝陵島に対する領土的範囲が確立していたからである。そのため李奎遠が欝陵島の属島としたのは竹島(チクトウ)と島項(後に鼠項島、鼠項島の発音は石島のソクトウに近い)の二島で、いずれも欝陵島から2キロ以内の小島である。

 韓国の慶尚北道議会は、「勅令第41号」に依拠して10月を「独島の月」とした。だが「勅令第41号」の石島は独島(竹島)ではなかった。欝島郡自体、「周廻一百四五十里」の欝陵島一島に限られていたからだ。韓国側では勅令を根拠に、竹島の島根県編入を侵略と決め付けているが、歴史的根拠がないまま竹島を不法占拠しているのは、韓国側なのである。

(下條正男)


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