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1902年外務省通商局編纂の「通商彙纂」が語る鬱陵島

はじめに

 

 明治時代、外務省通商局が各地の領事からの報告をまとめて刊行した「通商彙纂」(つうしょういさん)なるものがある。そのうちの1902(明治35)年度のものには、鬱陵島警察官駐在所の警部西村圭象が、釜山領事館の幣原喜重郎領事に対する明治35年5月の報告を利用したと考えられる「付録韓国鬱陵島事情」という部分がある。

 1902年といえば、直前の1900年に朝鮮では勅令41号により鬱島郡が生まれているし、直後の1906年には中井養三郎、奥原碧雲等45名の島根県の調査団が鬱陵島を訪問しており、それらと関連させると興味深い資料である。

 以下に具体的内容を紹介してみたい。

 

1.鬱陵島の地勢について

 

 まず、この記録は鬱陵島本土の地勢を、江原道蔚珍からの距離、周回9里半という島の大きさ、断崖絶壁が多く砂浜が少ないが、島の内部は森々たる樹木が繁茂している形状を記している。そして続いて「テツセミ島ハ臥達里ノ前洋ニ在リ、本邦人之ヲ竹島と俗称ス、周回三拾丁余、「タブ」女竹繁スト雖トモ飲料水ナキヲ以テ移住スルモノナシト云フ」と1つの島を紹介している。韓国在住のアメリカ人研究者ゲーリー・ビーバーズさんは、テツセム島とは、竹嶼という韓国式発音の日本語標記だと解説されている。その後「亭石浦ノ海上ニ双燭石及び島牧ノ島峡アリ、周回二十丁、本邦人之ヲ観音島ト称シ、其岬ヲ観音岬ト云ヒ、其間ヲ観音ノ瀬戸ト呼ヘリ、又双燭石ハ三岩高ク樹立スルニヨリ三本ノ名アリ」と、現在三本立ち岩と呼ばれている岩礁と現在も観音島と呼ばれ続ける島を紹介している。「通商彙纂」は鬱陵島の地勢についてこれだけをを記すのみである。

 1900年、朝鮮では勅令41号によって蔚陵島、竹島、石島の3島による鬱島郡が誕生した。石島が三本立ち岩や観音島の総称とすれば「通商彙纂」のいう地勢に合致する。

 朝鮮で発行されていた「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事に、鬱島郡の範囲を示すものがあるが、それもこの地勢に合致している。しかし、現在の韓国では石島を鬱陵島から92キロメートル離れた場所にある日本の竹島だとする説が主流である。

 

2.在島韓民の状況

 

 「通商彙纂」は2番目に、鬱陵島における韓民すなわち朝鮮人の活動についてまとめている。それによると、永住者のいなかった鬱陵島に1881年江原道から裴季周(はいきしゅう)、金大木、卜敬云、田士日と名乗る4名の者が来住者し、開拓の祖となったという。空島政策の終了であると共に、1895年から鬱陵島の島監という最高の役職につき活躍する裴季周が開拓のパイオニアの一人であったことがわかる。

 日本の外務省外交史料館に保存されている「鬱陵島在留民取締ノ為警察官派遣ノ件上申」なる文書も「裴季周ハ仁川ノ対岸永宗島ノ住人ニシテ今ヨリ二十年前鬱陵島ニ移民開拓ノ挙ヲ計画シ率先シテ該島ニ渡航シ其開拓ニ従事シ」と同じ内容を記録している。

 また、裴季周は島監時代の1898年、鳥取県と島根県の者が「鬱陵島へ私航、樹木濫伐」をしていると、自ら鳥取県境港、島根県松江に姿を現わし、裁判所に告訴したりした。朝鮮本土から江原、慶尚、咸鏡、全羅道の人を中心に移住者が増え、1901年段階では、3,340名が556戸の家族として生活していた。「各地ニ散在シ精励以テ開墾ヲ為シ専ラ農業ヲ営ミ漁業ニ従事スルモノハ僅少ナリ」、「一般ノ風俗ハまことニ淳朴質素ニシテ兇暴、残忍ノともがらナク、到ル処往々書堂ヲ設ケ児童ヲ集メテ孔孟ノ教ヲ授クル」、「人情温厚誠実ニシテ彼我貿易上ニオイテモ曾テ紛擾ヲ醸シタルコトナク、在留本邦人トハ常ニ直接ノ関係ヲ有スル二ヨリ至テ円滑ナリ」等、日本人から見た鬱陵島の朝鮮人について素描している。

 

3.鬱陵島の日本人について

 

 「通商彙纂」は1901年に在島の日本人を548人、戸数79軒と記している。そして、渡島の歴史として「昔石州浜田、伯州境地方ヨリ本島ニ渡リ樹木ヲ伐採シ輸出セシコトアリ」、「明治十二三年中大阪ヨリ東京社ハ多数ノ樵夫ヲ連レ来リ槻(ケヤキ)ヲ伐採シテ京都某寺ノ建築用材ニ供シタルコトアリ」、「明治二十五年ニ至リ隠岐ノ国ヨリ製材者数名渡航シ来リ始テ始テ假小屋ヲ構ヘ永住スル二至レリ」等から書き始めている。文中の東京社とは東京の大倉喜八郎が組織した大倉組のことで、大倉組がおこなった鬱陵島での開拓事業のことである。

 文中の明治25(1892)年に永住を開始した隠岐国の人として、具体的には知夫郡宇賀村(現在の隠岐郡西ノ島町宇賀)の脇田庄太郎が知られている。「通商彙纂」にも、「今ヤ初航者ハ、僅ニ製材兼鍛冶業島根県平民脇田庄太郎一名現住シ、其他ノ渡航者ハ長クモ七八年ニ過キス」とあり、外務省外交史料館の資料にも「竹島ニ於テ鍛冶職ヲナシ竹島ノ産物ト交換ヲスル聞ヘアル者」と脇田庄太郎を紹介し、妻キクも一緒に生活していると記している。

 年々増える在留者には「在留民ノ増加スル二従ヒ不良ノ徒入込ミタルヲ以テ取締ノ必要起リ」、「渡航者ハ概ネ無智文盲ノともがらニシテ二尾紛擾ヲ起シ、強ハ弱ヲ凌キ、智者ハ愚者ヲ欺キ甚シキに至テハ兇器ヲ携ヘ暴行を加ヘ、他人ノ物件ヲ強奪セシコトアルモ之ヲ制止スルモノナク」と問題も生じてきた。その為に有志が図って「本組合ハ鬱陵島日商組合ト称シ在島日人合議ヲ以テ組織事務所ヲ道洞ニ設ク」等34ヶ条の規則による合議制の組織を設立した。当初は「在島の本邦人ハ全然二派ニ分立シ」と、ハタモト党(畑本吉造を中心とするグループ)とワキタ党(脇田庄太郎を中心とするグループ)とよぶ二大勢力の抗争もあったが、1901年にはお互いの歩み寄りで対立も解消している。

 この年の8月段階での日商組合の役員は、組合長が畑本吉造、組合副長片岡吉兵衛、取締深田甚太郎、脇田庄太郎等12名が議員で、すべて組合員の選挙で選ばれている。

 1906年3月27日島根県の調査団は鬱陵島を訪問したが、この調査団の一員であった奥原碧雲は、翌3月28日に「片岡、脇田、吉尾諸氏の宅に分かれて休憩す」と「竹島渡航日誌」に記している。片岡は片岡吉兵衛、脇田は脇田庄太郎、吉尾は鳥取県西伯郡米子町から来島していた吉尾万太郎のことだと思われる。この日に先立つ3月17日、隠岐島庁から脇田庄太郎に調査団の島での案内の依頼状が、脇田からは島庁へ今年の鬱陵島は3月になっても雪があり、大変寒いから夜具等に配慮して来て欲しいという手紙が送られており、その写しが島根県の行政文書に綴られている。

 

4.漁業の状況について

 

 「通商彙纂」はその他「島の物産」、「貿易の概況」、「商況」、「交通」、「気候」、「伝染病」等も紹介するが、注目したいのは漁業の状況である。

 そこには「本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ収穫物ハ鮑(あわび)、鰒(ふぐ)、天草、海苔、若芽ノ数種ニ過ギズ、漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス。而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ海岸ニ満生スル若芽ヲ採取セリ」とした後、「又本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ、之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト称ス、同島ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ本島ヨリ出漁スルモノアリ、然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ四五日間ヲ経ハ本島ニ帰港セリ」と現在の竹島を漁場として扱っている。三小島とは東島、西島、五徳島のことであろうか。鬱陵島までは来る朝鮮の人のリャンコ島への渡島は記されていない。

 この1902年の「通商彙纂」が出版された翌年の1903年、隠岐の中井養三郎がリャンコ島で2年間にわたるアシカ猟を開始した。「明治三十六年ニ至リ断然意ヲ決シテ資本ヲ投ジ漁舎ヲ構エ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘテ先ツ海驢(アシカ)猟ニ着手致候」、「今日駿々乎トシテ盛運ニ向ヒツツアル処ノ本邦ノ江原、咸鏡地方ニ対スル漁業貿易ヲ補益スル所、本島経営ノ前途、最モ必要ニ被存候」と、中井養三郎は1904年明治政府の内務、外務、農商務の3大臣に「リャンコ島領土編入並びに貸下願」を提出した。そこには単なるアシカ猟だけでなく、鬱陵島や朝鮮本土を見据えた思いも綴られている。

 

(島根県竹島問題研究顧問杉原隆)

 


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