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韓国側の報道にみる竹島

 

 韓国側では、最終報告書の提出後も、韓国で竹島の領有権を示す資料が新たに見つかったと度々報道されています。今回は、こうした報道が本当に竹島に対する韓国の領有を示すものであるか検討することにします。まずは2007年(平成19年)7月5日の聯合ニュースの報道です。


 

 (1)独島を新羅の領土と表記、日本の古代地図を発見

 【釜山5日聯合】独島を新羅の領土として表記した日本の古代地図が見つかった。

 釜山外国語大学の金文吉(キム・ムンギル)教授(韓日関係史専攻)は5日、鬱陵島と独島を新羅の領土として表記した日本図を発見したとし、関連写真2枚を公開した。この日本図は神奈川県の金沢文庫が所蔵するもので、7世紀に日本の僧、行基が日本列島を布教して回りながら作った日本で初めての地図とされる。行基は日本に帰化した百済人の子孫で、日本の古代仏教の名僧として国づくりにも貢献したといわれる。

 行基図では現在の鬱陵島と独島を、雁などが羽を休めていくところという意味で「雁道」と表記している。人の住まない、新羅の領土という解説もついている。

 金教授はまた、1662年に京都で郷土史を研究していた人物が行基図を土台に西洋の測地法を用いて作った地図の写真も公開した。これは京都大学の博物館が所蔵するもので、これにも鬱陵島と独島は「雁道」と表記されている。

 金教授はこれらの地図から、古代の日本人が鬱陵島と独島を「雁道」と呼び新羅の土地として認めていたことが確認できるとし、「独島領有権を主張する日本に反論できる貴重な資料を確保したという点で意味がある」と述べた。

 


 

 つまり、日本図として有名な行基図(行基菩薩が作製したと伝える日本図)に独島を発見し、独島は新羅の領土であったと記しています。しかしながら、金教授が主張する独島というのは、すでに多くの研究で架空の島「雁道」のこととされており、独島と鬱陵島をあわせた島ではありません。

 金沢文庫所蔵の行基図は、14世紀初期のもので、日本列島の北側に「雁道雖有城非人、新羅国五百六十六国」との注記があります。これは「日本列島の北側に雁道がある。そこには城があるが住んでいる人ではない。またそこには新羅国があり566国に及んでいる」とあるだけです。金教授はこの注記から「雁道=独島、鬱陵島」であり、それが新羅の領土であると解釈しています。しかしながら、先にも述べたように「雁道」とは架空の島のことであり、雁道=独島、鬱陵島という前提自体が間違っています。金教授は「雁道」が独島と鬱陵島をあわせた島という解釈について、史料的な根拠を提示していません。

 また日本列島の北西には陸地が描かれ、そこには「高麗ヨリ蒙古」とあり、高麗やモンゴル帝国が書いてあります。つまり日本の北側には架空の国があり、北西側には朝鮮、モンゴル帝国があるというように、日本列島のまわりに実在する国と伝説の国が混在して描かれていることが分かります。

 さらに「1662年に京都で郷土史を研究していた人物が行基図を土台に西洋の測地法を用いて作った地図の写真も公開した。これは京都大学の博物館が所蔵するもので、これにも鬱陵島と独島は「雁道」と表記されている」とありますが、これも間違いです。この絵図は、「扶桑国之図」とよばれる日本図で、寛文6年(1666年)に中林吉兵衛が刊行した絵図です。伝統的な行基図をベースとしながらも、幕府の作製した寛永日本図の影響も受け、日本列島の形が徐々に整ってくるようになります。この絵図にもわが国の北側に、「雁道」が描かれていますが、これは「行基図」の影響を受けたもので、架空の島です。中林吉兵衛はおそらく地図の出版者であり、「京都で郷土史を研究していた人物」とか「西洋の測地法を用いて作った地図」とかいうのも何を根拠にしているのか分かりません。つまり、公開された2枚の絵図とも、「雁道」が描かれているものの、これは鬱陵島や竹島のことではなく、架空の島であるといえます。

 続いて2007年(平成19年)7月4日の韓国・世界日報の記事です。


 

(2)鮮干栄俊さん「正祖、臣下らと独島問答」を主張

 正祖「独島の防御策を読もう」

 丁若■(かねへんに庸)「空島で放置は間違っている」

 朝鮮時代正祖(*1)が直接臣下らに、鬱陵島・独島の防御策を問う試験を実施し、丁若■(かねへんに庸)(*2)が1位となったという主張が発表された。

 4日鮮干栄俊「韓国領独島、日本認定推進委員会」準備委員長によれば、正祖は1789年閏5月に大臣らを対象に領土の防御問題を論ずる親試を実施した。

 正祖は「鬱陵島と損竹島は長い間無人島で捨てられ、閭延と茂昌(*3)ははるかに昔の郡県を回復することができない。(中略)願わくば子大夫は私のために論じならべて、みんな対策を著述しなさい。私が自分で読もう」と指示した。

 そこで丁若■(かねへんに庸)は「鬱陵島と損竹島などを空島にして捨てておくことは良い計策ではない。鬱陵島は昔の于山国に新羅智證王が征服したところだ。矢柄(*4)やてん皮と奇妙な木などが済州島より多く、水路が日本と近く接している」と答えた。

 丁若■(かねへんに庸)は「もし狡猾な倭人らが密かに鬱陵島に来て先に占拠してしまったら、国家の大きな心配の種だ。今でも民を募集して鬱陵島に入って行って暮らすようにして、鎮堡(*5)の設置も引き延ばすことはできない」と付け加えた。

 損竹島に対しては「やや小さい島であるうえに、憂慮する問題もないから、たとえ捨てておいても弊害はない」と答えた。

 正祖の質問は正祖の詩文集弘斎全集第50冊の策問(*6)、3の地勢、抄啓大臣(*7)の親試(1789年)に書かれ、丁若■(かねへんに庸)の回答は茶山詩文集の対策にあり、この試験で首位(1位)を占めたという内容も含まれている。

(http://www.segye.com/Service5/ShellView.asp?treeID=1258&PCode=0007&DataID=200707041714000201(リンク切れにつき閲覧不可))

 


 

 正祖とは朝鮮王朝第22代王であり、直接臣下らに、鬱陵島・独島の防御策を問う試験をしたところ、朝鮮後期の実学者となる丁若■(かねへんに庸)が、「空島で放置は間違っている」と回答したというものです。丁若■(かねへんに庸)は「鬱陵島と損竹島などを空島で捨てておくことは良い計策ではない」と回答しました。鮮干栄俊氏は鬱陵島の後に出てくる「損竹島」を現在の竹島と解釈しているようですが、これは間違いです。「損竹島」とは全羅南道の損竹島です。現在は巽竹島と呼ばれています。全羅南道の南東に位置する麗水(ヨス)の南西に浮かぶ小島で、巽竹列島にあります。中世には倭寇が襲撃したところで、『朝鮮王朝実録』にも記載があります(宣祖21年=1588年11月)。「損竹島」は鬱陵島の後に書かれているだけで、現在の竹島であることを示す資料的根拠は提示されていません。

 また「鬱陵島は昔の于山国で新羅智證王が征服したところだ」とあるように、于山国は鬱陵島を指していたことが分かります。さらに「もし狡猾な倭人らが密かに鬱陵島に来て先に占拠してしまったら」という記載や、「(鬱陵島は)水路が日本と近く接している」という記載から、当時日本との境界は、現在の竹島ではなく、鬱陵島にあったという地理的認識が読み取れます。このように、報道にある、正祖「独島の防御策を読もう」、丁若■(かねへんに庸)「空島で放置は間違っている」というやりとりは、史料には記載されていないことが分かります。
報道によれば、鮮干栄俊氏は「韓国領独島、日本認定推進委員会」準備委員長であるとのことです。こうした史料に立脚しない、明らかに間違ったことが研究成果として、韓国国内では度々報道されています。私たちはこうした間違った研究成果に対して、粘り強く反論していく必要があるといえます。
(元竹島問題研究会委員 島根大学法文学部准教授 舩杉力修)

 

【註】
*1:正祖:1752〜1800。朝鮮王朝第22代王。
*2:丁若■(かねへんに庸):1762〜1836。朝鮮後期の実学者。京畿道広州生まれ。幼く父親から経史を学び、1776年上京、翌年経世致用の学問に志を抱き、李檗を通じ西洋書籍を得て読んだりした。1789年式年文科に合格。柳得恭・朴斉家などとともに奎章閣の編纂事業に参加した。思想的に柳馨遠と利益を通じて経世致用的実学思想を受け継ぐ。彼は歴史と地理にも深い関心をもち、主体的な立場を示し、西洋の科学知識と技術にも関心を持って漢江の舟橋架設とスウォン城の設計、城制説と起重機の創製、種痘法の研究と実験などをしたりした。著述では六経・四書に対する『註解書群』が代表的で、これ以外に『我邦疆域考』、『雅言覚非』、『大東水経』、『麻科会通』、『医零』など合計500余巻に達する。
*3:閭延、茂昌:江界四郡(閭延・茂昌・虞■(くさかんむりに丙)・慈城)のなかの地名。威鏡道の鴨緑江上流部にあたり、後世に廃四郡と呼ばれるもののうち、虞■(くさかんむりに丙)・閭延・茂昌の三郡に「古」を付けて郡名が記載されている。この三郡は世祖元年(1456年)まで置かれ、1456年以降は廃郡となっている。
*4:矢柄:矢の幹。鏃(やじり)と羽根を除いた部分。普通は篠竹(しのだけ)で作る。篦(の)。矢篦。
*5:鎮堡:軍事施設
*6:策問:政治に関する対策を聞いた文科試験科目。
*7:抄啓文臣:朝鮮後期奎章閣に委託して再教育を受けた大臣。
【文献】
秋岡武次郎編『日本古地図集成』、鹿島研究所出版会、1971年
青山宏夫「雁道考」、人文地理第44巻5号、1992年
応地利明『絵地図の世界像』、岩波書店、1996年


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