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戸田敬義と「竹島渡海之願」

はじめに


島根県Web竹島問題研究所の質問コーナーに「島根県士族戸田敬義が「竹島渡海之願」に添付したという地図は現在残っているか」等という質問(「B.明治~第二次世界大戦末まで」の質問30)が寄せられた。
このことに詳しい研究所の協力員の方が二葉のその地図は東京の外務省外交史料館、また写しは国立公文書館にあることや具体的に質問の一つにあった島は竹嶼であるということを教示された。

 明治10(1877)年島根県士族戸田敬義は明治政府に「竹島渡海之願」を提出した。
戸田敬義については、少し調べていることもあるのでこの機会に発表してみたい。

 

 

1、戸田敬義について

 

 戸田敬義(とだたかよし)は旧鳥取藩士であるが、自分を島根県士族と署名しているのは明治9(1876)年島根県と鳥取県が合併し、現在の鳥取県も島根県と呼ばれた時代であったからである。

鳥取県立博物館には『戸田敬義家従天正十年至明治六年』と表紙に記された戸田家の系図を中心とした記録が所蔵されている。天正10(1582)年織田信長のもとで活躍した戸田庄左衛門を始祖とし、明治6(1873)年戸田敬義が鳥取藩の権大属の職を免ぜられるまでの記録である。戸田敬義は戸田家10代目の家主で嘉永2(1849)年に弱冠8歳で家督を継いでいる。鳥取藩士としての石高は三百五十石であった。戸田家の屋敷は現在の鳥取市湯所町1丁目にあたる上級、中級藩士が居住した地域にあった。

 戸田敬義のその他の履歴については、彼が明治6(1873)年には東京に出ていることが前述の『戸田敬義家』の記録の末尾に「別紙東京在勤申付候事同六年一月十七日」とあることから推測される。居住地は最初東京第四大区第二小区水道橋内三崎町二丁目一番地華族裏松良光邸内に寄寓とあり、明治11(1878)年には東京第六大区小日向茗荷谷町七番地寄寓となり、後述の沖縄県の官吏を退職して東京に帰ってからは東京小石川区久堅町七十四番地となっている。

明治9(1876)年12月、彼は元老院に対し「各地方官ヲ御改メ内務本省ノ官員派出巡環事務ヲ提掌シ并地方ノ警察事務ヲ警察庁ニ掌リ同庁ノ員派出巡環細事形勢ニ至ル迄全国一途ニ御施行被為在度建言」を提出している(国立公文書館所蔵)。趣意書によれば、「前ニ佐賀ノ挙動、近キハ熊本、山口等ノ暴動ニ至ルモ其謀主ハ姦計ヲ胸中ニ隠シ細民ヲ誘導スルハ施政ヲ悪言スルノ他ナカルべシ」と明治7(1874)年の江藤新平等による佐賀の乱、熊本の神風連の乱、萩の乱にふれて中央主導の行政、警察権の確立の必要を建言している。この時戸田は33歳であった。そして翌明治10(1877)年1月には「竹島渡海之願」を出すが、それについては後述する。

 その後の戸田の消息は琉球処分によって成立した沖縄県の官吏として、折々確認できる。まず明治12(1879)年伊是名(いぜな)島等を調査して県庁に報告し、沖縄に設置された9つの区の成立に尽力した「島役所長戸田敬義」として登場する。

また全国の県庁職員の役職を記した『職員録』の沖縄県の部を見ると、明治19(1886)年の「第一部」なる部署に判任官四等で戸田の名があり、明治24、26年には「内務部」の部署に第二課長心得兼那覇二等測候所長として名前が掲載されている。東京都公文書館に所蔵される「明治二十七年記文官恩給者名簿」には、戸田について、沖縄県属として明治27(1894)年6月に退職したと記録されている。

 

2、戸田敬義の「竹島渡海之願」について

 

 戸田は明治10(1877)年1月東京府知事楠本正隆(※)に「竹島渡海之願」を提出した。現在は明治14(1881)年8月外務省の北澤正誠がまとめた外務省記録『竹島考証』でその内容は確認出来る。大筋を抜き出してみると、


「明治維新以降北海道方面の開拓の動きが続く中でかつて読んだ『竹島渡海記』を思い出した。34歳の今この我が国の属嶼に愛着を感じ竹島に関するものを探しもとめた結果、二葉の書図を入手し隠岐の古老の伝言も聞き及んだ。持参していた『竹島渡海記』は目下東京への移転の混乱等で見つからないが幕府が天保期頃目付け役に竹島渡海を命じ、巡島をさせたそうであるからその随行者が編集したものかと思われる。ただ伝言の書等の真偽を談ずるより実地を調査することが大切である。たまたま政府は小笠原諸島に官吏を派遣されると聞くが、政府が開墾に力をそそごうとされるのは喜ばしく、それにそって自分も絶海の孤島に渡り砕身奮闘し国益の一端を担いたいので、渡海免許の件ご許可いただきたい」

 

等が書かれている。
なお戸田は政府からの許可がでないので、3月14日、4月にも願いを出したが、6月8日東京府知事名で「書面竹島渡航願之儀難聞届候事」という不許可の通知があった。
東京都公文書館に残る「明治十一年往復録庶務課戸籍掛」なる文書には明治11(1878)年3月に、東京府知事楠本正隆宛に島根県権令境二郎名で戸田敬義への戸籍に関する書類の回送依頼、戸田敬義から楠本正隆への受け取ったことの通知、楠本正隆から境二郎への「寄留士族戸田敬義へ書類達し方の義につき御回答」が残っている。境二郎は島根県参事として明治9(1876)年内務省に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出、明治14(1881)年には島根県令として那賀郡浅井村士族大屋兼助外一名の「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を内務省、農商務省に提出した人物である。

 さて、「竹島渡海之願」を総括してみると周囲の社会的動向からの出願であるが、過去に読んだ「竹島渡海記」の存在が大きいことがわかる。「竹島渡海記」とは具体的には何を指すのであろうか。天保期頃のものとあるから今津屋八右衛門の口述書である『竹嶋渡海一件記』の可能性がある。「幕府が目付け役に命じて巡島させ」と戸田は書くが、八右衛門は浜田藩の藩主で幕府の筆頭老中松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の指示等を数多く語っており、戸田の記憶に八右衛門が周防守康任の命令で渡島したという誤認があったことが考えられる。そのことは「竹島渡海之願」に添付された「竹島之図」が八右衛門が書いたものを原画としていると推測されることにも関係すると思われる。

 

3、「竹島渡海之願」に添付された「竹島之図」について

 

 戸田の「竹島渡海之願」の中に「二葉ノ書図ヲ入手」、「図画ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家二求ム」という記載がある。また外交史料館には「島根縣士族戸田敬義願書添/竹島

之図弐葉」と書いた封筒とその二葉の「竹島之図」があるという。実は私達は平成18年国立公文書館で同じ二葉の図を発見し、発表もして来た。今回外交史料館に戸田敬義の「竹島之図」が所蔵されていることをご教示いただいた研究者からそのデータを送ってもらったので比較してみた。国立公文書館のものは「明治十年八月模写」とあり、戸田の「竹島渡海之願」は明治10(1877)年1月提出だから国立公文書館のものは写しであることがわかる。確かに外交史料館のものは「竹島之図」と2枚とも記されているが、国立公文書館のものは「竹嶋之図」と記されたり鮮明さ等に違いが確認出来る。二葉の図の内ともに「甲」と記されたものは天保6年隠岐で崎村の圓太夫が八右衛門が持参していた「竹島之図」を八右衛門から直接筆写させてもらったと記している図と極似している。
「甲」には「天保四巳霜月十九日夜求持主権吉」とともにある。八右衛門は同年8月15日に浜田に帰帆しているから、帰帆して数ヶ月後写させてもらったものである。この「竹島之図」の持ち主は権吉とあるが、八右衛門と一緒にこの年竹島渡海をした関係者の中に権吉なる人物はいない。戸田が「図画ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家に求ム」と記しているがこの家と持ち主権吉と関係があるかどうかは目下不明である。

 「乙」の「竹島之図」は竹島の内部を薄青色のなだらかな山を数多く描き、海岸の岩礁部分を薄茶色の岩の塊で表現し記載も東西南北の方角、川、山、浜と里、丁の距離程度の簡素なもので竹島の形も大雑把で抽象的な表現である。ただ「五拾間斗立岩三つ、海中ニ有」と書かれているいわゆる三本立岩と「此嶌廻リ壱リ半」と書かれ、島内に木々も表現され竹嶼と思われる島等は印象に残る地図である。この「乙」の図は『竹島考証』に外務省記録局長渡邊洪基が当時混乱していた竹島、松島について自分の考えを述べた「松島之儀」の部分に「戸田敬義ノ図(中略)図中南隅ニ一里半周囲ノ一島ヲ載ス是于人島ナルべシ」とこの図も参考にして思考したことを記している。

 


 (※正式には隆の字は隆の生の上に一を書く別の字であるが、機種依存漢字であり表記できないので“隆”の字を用いている)

 

 

家系図

 

 写真1「戸田敬義家」系図(鳥取県立博物館所蔵)

 

 

戸田から東京府知事楠本への書簡

 

 写真2戸田敬義から東京府知事楠本正隆への書簡(東京都公文書館所蔵)

 

 

竹島之図甲

 

写真3「竹島之図」甲(外務省外交史料館所蔵史料)

 

竹島之図乙

 

 写真4「竹島之図」乙(外務省外交史料館所蔵史料)

 

 


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