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宮崎幸麿と『好古類纂』

 

 

はじめに

 昨年末に、東京の知人から宮崎幸麿(みやざきさちまろ)という人物と彼が竹島について書いた論文が載る『好古類纂』(こうこるいさん)という書籍について知らないか、という問い合わせをいただいた。残念ながらまったく知らない人物名と書籍名であったので竹島資料室の皆さんでインターネットでの検索等で追跡してもらった結果、宮崎幸麿は幕末から明治初期の島根県鹿足郡津和野町出身の旧津和野藩士で、『好古類纂』は彼が代表を務める東京の好古社なる出版社より、1900年から1909年にかけて刊行された百科全書的な類纂書で津和野町の郷土館に所蔵されていることがわかった。今回津和野町教育委員会の協力を得て調査し、報告させてもらうことにした。

 

 

(1)宮崎幸麿について

 宮崎幸麿の人物像については、津和野町の森●(區に鳥おう)外記念館が刊行している『館報』の第12号(2008年)等に紹介されているので、それらから略記させていただくことにする。宮崎幸麿は津和野藩士宮崎貞一の長男として嘉永3(1850)年に生まれた。その後少年期から津和野藩の藩校養老館で学んだが同窓生には後森●(區に鳥おう)外の和歌の師となる加部嚴夫(かべいずお)がいた。

 明治維新後は一家を挙げて上京し、明治30年代末まで宮内省図書寮に勤め、史料編纂に携わった。明治27(1894)年日清戦争が勃発すると、津和野藩の最後の藩主亀井●(玄玄)監(これみ)の養子●(玄玄)明(これあき)が写真班を編成して従軍した際には随行している。また書籍の編纂者としても活躍し、後述する『好古類纂』や津和野藩校養老館教授岡熊臣(おかくまおみ)の詳伝『贈従四位岡熊臣詳傳』(明治40年刊)は彼が代表者として編纂した。

 宮崎幸麿については、津和野の郷土史家である澄川正彌(すみかわまさや)が編んだ『津和野教育沿革及び人物略傳』(昭和3年刊)に次のような記述がある。「宮崎幸麿津和野藩士で福羽美静(ふくばよししず)に従学したこともあったが東京に出でて緒名流と交り博学多識才気縦横を以て聞えた。岳父藤田東湖に私淑して憂国の志は燃ゆるが如くであった、太政官、内閣、内務省、賞勳局等に出仕し曽て岩倉具視公の臨時編纂局総裁であったとき、大政紀要の編纂委員として敏腕を揮ったことがある、晩年郷土の史實を詳にせんとしたが果さず、大正八年九月二日卒す。」とある。

 岳父すなわち妻の父が藤田東湖であったことも初めて知った。藤田東湖は幕末の水戸藩の儒者で水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の側用人として活躍、ペリーの浦賀来航時には幕府参与となり、安政の改革にも加わった。その著書『弘道館記述義』等は尊皇攘夷派の志士に愛読された。

 

(2)宮崎幸麿と森●(區に鳥おう)外

 宮崎幸麿はまた同郷の津和野の出身の森●(區に鳥おう)外とも親交があった。幸麿が12才年長の先輩であったが●(區に鳥おう)外の代表的史伝「澀江抽齋(しぶえちゅうさい)」には京水(けいすい)という人物を調べている描写で「先づ郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓のことに精しい武田信賢さんに問うて貰ったが、武田さんは知らなかった。」と幸麿が実名で登場するし、「●(區に鳥おう)外日記」の大正八年一月十五日の条には「宮崎幸麿至。言勤齋遺墨之事。」と最後の津和野藩主である勤齋公・亀井●(玄玄)監の遺した書について幸麿が話に来たことが記されている。また近年二通の●(區に鳥おう)外から幸麿に宛てた書簡が発見され宮崎家から津和野の森●(區に鳥おう)外記念館に寄贈された。

 

(3)『好古類纂』について

 『好古類纂』は1900年から1909年にかけて史伝、系譜、古蹟、儀礼、装束、官職、風俗、遊戯、地理、園芸、建築、工芸、金石、貨幣、武器、書画、文学の分野を1編に12集ずつ収集した3編と拾遺2集の合計38冊にまとめた類纂書である。執筆者は小杉椙邨(すぎむら)、黒川真道、井上頼圀(よりくに)等数十名の歴史家、国文学者が参加、代表は宮崎幸麿が務めている。

 その『好古類纂』第1編第3集「諸家説話」の部に宮崎幸麿自らが「竹島」なる一文を書いている。「石見海に竹島といふ島あり、我旧津和野領たりし」の書き出しの部分には驚かされる。竹島は当然鬱陵島のことだが、鬱陵島が津和野領だったことがあるとは聞いたことがない。その後の説明で文禄、慶長の役に参加し後津和野藩主となる亀井武蔵守●(玄玄)矩が竹島に上陸してこの島を制圧した後、咸鏡道を攻略しこの島は鳥取藩の池田侯に預けたと兵家で儒家でもある佐藤信淵(さとうのぶひろ)が説明していることを論拠としている。

 続いて隣接する長州の藩士桂小五郎(木戸孝允)、村田蔵六(大村益次郎)が幕末に「竹島開拓建言書草案」を提出したことを説明したうえで、その願い書の全文を掲げている。内容の主な主張は最近外国船が竹島周辺に出現するようになってきており、植民でもして国防を考える必要があること、北前船が下関へ往復する時暴風暴波の折には竹島に碇泊して天気の回復を待っていること、すでに島には日本人が建てた人家が5、6軒あると聞いていること、かって朝鮮国へお渡しになったという風聞もあるが朝鮮人の渡海は皆無であること、世界地図を見ると日本と同じ色に着色され、島名も「タケエイ・ララド」と記され日本の属島と認識されていることは明白であること、万一この島が外国の手に落ち、植民でもされた時には日本や直近にある長州にとって多大の禍になることは必至であること等をあげている。

 幸麿は故郷津和野や山陰西部の人達の思いを中心に「竹島」を紹介したのである。

 

 写真1

         

  

写真1亀井●(玄玄)明と宮崎幸麿(右側)

 

 

 

          森鴎外から宮崎幸麿への書簡

 

 写真2森鴎外から宮崎幸麿への書簡

 

 

 

          好古類纂の画像

        

 写真3『好古類纂』

 

 

 


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