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昭和28、29年竹島に渡航した日本船について補遺


はじめに


 すでに知られていた島根県水産試験場の試験船「島根丸(2世)」、隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」、舞鶴海上保安本部ならびに境海上保安部巡視船「おき」、「くずりゅう」、「へくら」、島根県取締船「島風」等の日本船が昭和28、29年という日韓が竹島に関して最も緊張していた時竹島に航行した事実は良く知られている。また、韓国嶺南大学『独島研究』17号(2014,12,31発行)に朴炳渉氏が「1953年日本巡視船の独島侵入」という論考を発表され、昭和28年に関しては新資料も発掘されている。ごく最近2015年2月22日の竹島の日の式典後の行事として行われた壇上鼎談で島根県竹島問題研究顧問の藤井賢二氏は「昭和28年は竹島問題を一気に解決できるチャンスのあった年である」と発言された。私も昭和28、29年は重要な年と考え、これまで発表されていることに補足したい事柄をいくつか確認しているので以下に報告してみたい。


1.島根丸について


 島根県水産試験場の試験船「島根丸」についてもう少し具体的な事柄を知りたいと、かつての島根県水産試験場、現在は島根県立水産技術センターと呼ばれる浜田市瀬戸ヶ島町にある施設へお邪魔した。これまで2回資料室での調査をさせてもらい思いがけない事実もわかった。まず2代(在任明治40年5月~明治44年3月)と4代(明治45年~大正7年1月)の水産試験場長は面高慶之助であった。面高は明治39年島根県調査団が竹島、鬱陵島調査を行った時、島根県水産試験場技手の身分で団員の1人として参加している。奥原碧雲の『竹島及鬱陵島』に掲載されている隠岐島廳前での集合写真では、最後尾の列の中井養三郎の隣に写っている。『島根県水産試験場八十年史』の「歴代場長略歴」には、鹿児島県出身で明治政府の農商務省が設立した「水産伝習所」を卒業後明治34年4月、島根県水産試験場創立とともに主任技手として島根県に赴任しているとある。また、場長時代「漁船団をひきつれ朝鮮海出漁試験を指導、日露戦争後は朝鮮に漁民の移住、通漁のための漁業根拠地設営に貢献した。」とある。朝鮮海域に出漁する各都道府県が合同で釜山に置いた朝鮮海水産組合の『会報』(明治41年5月発行)には島根県水産試験場が慶尚北道蔚珍郡竹辺南部を根拠地として家屋や工場を建築していることを報じている。彼が卒業した水産伝習所は、明治15(1882)年日本の水産業の組織化を目指す約400の個人、団体が結成した水産会の下に作られた専門の人材育成を目指す教育機関で、後「水産講習所」、東京水産大学、東京海洋大学へと改変されながら日本の水産業をけん引することになった。

 この学校の卒業生は楽水会という組織を作り機関誌や折々卒業生名簿を発行しているが、昭和8年12月刊の『楽水会会員名簿』島根県の部には伝習所1回生(卒業明治23年)として庵原文一(安濃郡川合村)、寺戸誠之(美濃郡鎌手村)、佐々木庄二郎(那賀郡浅利村)の名前が載り、伝習所4回生には藤田勘太郎(穏地郡五箇村)、中西松太郎(知夫郡黒木村)がいる。藤田、中西の2人は伝習所卒業後地元に帰り、藤田は鯛缶詰の製作、中西は漁網の改良にあたったことが明治36年刊の『隠岐誌』に記載されているが、藤田はその後再び上京して農商務省の技手となり、明治37年中井養三郎が「りゃんこ島領土編入并ニ貸下願」を提出した際に協力したことは有名である。

 島根県水産試験場長は面高の後、しばらくすべて水産講習所卒業の他県出身者が務めているが、昭和7年5月着任の第10代場長渋谷光時が現在の浜田市、当時の那賀郡浜田町殿町出身であった。そして渋谷のもとで初の鋼鉄試験船「島根丸1世」(93トン)が建造され海洋調査の海域が広がり、漁場開発にも貢献した。それまでの試験船は「三国丸」(約5トン・明治35~45年)、「八千矛丸」(19トン・明治45~大正12年)、「開洋丸」(80トン・大正10~昭和7年)で木造帆船型であった。「島根丸1世」は北は沿海州から南は海南島までの海域での各種試験に活躍したが、太平洋戦争の中で昭和18年軍の徴用を受け、19年6月ニューギニアでアメリカ空軍により撃沈された。

 敗戦後の資材不足の中で建造された木造63トンの試験船が「島根丸2世」である。日本の水産業は昭和20年9月沿岸12カイリ以内を漁業許可区域とする連合軍のマッカーサー・ラインのもとで新しい出発をすることになった。竹島は日本の統治から切り離され、アメリカ空軍の爆撃訓練場となった。この時期の水産試験場長としては昭和21年に着任した14代の喜多村勇と昭和28年に着任した16代神藤正がおり、彼らの苦闘に満ちた陣頭指揮は特筆できる。喜多村は島根県出身で「島根丸2世」の建造、漁業無線局や試験場の中海分場、浦郷分場の設置等施設の拡充強化に努めたし、「水試月報」を刊行して新技術の普及を計り昭和24年県庁水産課長に栄進した。昭和26年9月サンフランシスコ平和条約で日本は国際的に復帰、竹島も島根県所属となった。しかし翌27年1月韓国による李承晩ラインの設置により竹島は韓国に不法占拠される事態が発生した。そうした日本海域が緊迫している中で昭和28年2月から39年7月まで長期間場長を務めたのが神藤正であった。神藤の最初の仕事は国の事業として昭和28年から5ヶ年計画で開始された「対馬暖流域開発調査」であった。調査の目的は漁業経営の安定と漁場の開発で、南は宮崎県、北は北海道までの19道府県の水産試験場、九州大学等7大学の関係者が参加するという大規模なものであった。

 最初の調査は昭和28年5月27日午前9時、浜田を出発して神藤場長も「島根丸」に乗り込んで行われている。『80史』に載る神藤の「対馬暖流開発調査の思い出」によると、東経132度の子午線に沿って北上し、11点での観測を終え、28日午前4時最後の測量の場所に来ると竹島が見えた。測量を終えて午前10時竹島に近づくと数隻の韓国船が居り、船を近づけて来た韓国漁民と交歓したとある。くわしい報告書によると韓国側の船は動力船6隻、無動力船6隻(そのうち1隻は潜水器船)、漁民数約60人だったという。この時は竹島から3浬の距離を保ち着岸せず、舟を漕いでやって来た韓国人と交流しただけで浜田に帰って恒松安夫島根県知事に報告したが、新聞各紙にも大きく報じられ、政府からも報告を求められたため、神藤が上京して外務、農林、運輸、法務の各省で情況を報告している。その後竹島近辺での調査の時は接岸し同年9月17日、10月21日、翌29年3月23日の3回「島根丸2世」の乗組員は竹島へ上陸して写真を撮ったり韓国漁民が島に居る時は漁について質問する等交流している。9月17日の時は韓国人が居なかったので、島でアシカと戯れたりしたと新井都登司技師の談話が朝日新聞に載っている。

 また昭和28年6月16日午前4時50分浜田から北へ130浬、竹島の東11浬の海域で約10平方浬の堆(バンク)を発見した。周辺は1000メートル以上の水深だがその部分は最浅140メートル、普通部200~300メートルの水深で、上下水の混交でプランクトンの発生や繁殖に好条件の場所となり、竹島からこの堆にかけてはサバ、スルメイカ、サンマ等の回遊魚の好漁場であることも確認された。この堆は恒松知事により「神藤堆」と命名され、対馬暖流調査の最大の成果となった。「島根丸2世」は木造ながら歴史的な実績を残して昭和36年に任務を終え、鋼鉄船で106.73トンの「島根丸3世」と命名された試験船の登場となった。


2.隠岐高校水産科練習船「鵬丸」について


 昭和28年6月25日、隠岐高校水産科の練習船「鵬丸」は竹島に渡航した。

 島根県水産試験場試験船「島根丸2世」が知らせた竹島に韓国人が居るとの情報に、毎日新聞隠岐西郷通信部の里見主任記者が知人の市川忠雄校長に懇願して実現した渡航であることがわかっている。毎日新聞は「島根丸」による竹島の韓国人発見については5月31日付けの島根版に「日本領「竹島」に韓国人ー島根県の試験船が上陸を発見ー」として報じていた。「鵬丸」の竹島渡航の様子や竹島での動向は、これまで里見記者が書いた6月27日付けの島根版の「問題の竹島現地レポ-まだいた韓国漁夫-アシカの料理で歓待」の記事、「鵬丸」の船長但馬巳一郎氏の講演要旨、水産科の岩滝克己教諭が『隠岐水産高校創立70年史』に寄稿した「竹島調査航海の思い出」、筆者が行った岩滝克己教諭、機関長原和平氏からの聞き取りによって知られる程度であった。「鵬丸」の竹島行に関しては、毎日新聞以外の新聞社が「鵬丸」に同乗させて欲しいと申し出たが市川校長が拒否したことで、拒否された新聞社が県教育委員会へ抗議し、県教育長から市川校長に竹島渡航を中止するよう業務命令が出されたのにもかかわらず、校長が「鵬丸」を出航させた(この問題については私のレポート「昭和28年練習船を竹島に派遣した市川忠雄元隠岐高校校長の「賞罰」」2013.1.13(Web竹島問題研究所)を参照されたい)ことがすぐ問題化し、校長の処分が表面化していた。その為毎日新聞でも竹島渡航を依頼した責任上、一回だけの報道に留めたと考えられていた。

 平成26年11月28日島根県立図書館において別件の調査中に、私は毎日新聞島根版昭和28年6月28日付けに「「竹島」現地レポ第二信ーアシカ、海ネコ、アリランー戦前の夢の跡に涙ぐむ」という見出しの記事と「韓国人と語る里見記者」等5枚の写真が掲載されている部分があることに気が付いた。記事の内容ではまず25日午後3時55分、過去に10年あまり竹島渡航の経験があり水先案内人をまかされていた漁師の都田佐一(61才)が「島が見えた。」と叫んだとある。この時「鵬丸」に乗船していたのは但馬巳一郎船長、原和平機関長、隠岐高校水産科の岩滝克巳、鈴木昇一郎教諭と毎日新聞西郷通信部の里見記者とその知人、その他隠岐支庁土木課長、五箇漁業組合役員、隠岐の漁業関係者等総勢14名とされるが、漁業関係者でわかっていたのは橋岡忠重一人であった。

 この新聞記事で初見の都田なる姓について電話帳で現在の隠岐の島町を調べると、わずか2軒であり、すぐ都田幸男さんの祖父であることがわかった。都田幸男さんは、「祖父は西郷で刊行された写真中心の本の竹島に関する部分に載る集合写真に写っている。」と教えてくださった。その本は『日本海に浮かぶ‐ふるさとアルバム‐西郷‐』で、写真は済州島の海女も含む昭和8年とされる橋岡忠重氏が率いる竹島渡島組のものであり、橋岡忠重氏と共に都田佐一(本では名前が佐市となっている)氏も最前列に写っていた。

 新聞記事では続いて橋岡忠重氏が「十数年の空白はあるが、なつかしい島だ」と涙ぐみ、竹島の山肌を見て「十三年前松の苗木二百本を植えたが育っていない。鳥ふんがつきすぎた」と語ったこと、岩滝教諭が海図を片手に水深や回遊魚を調査していたこと、島に居た韓国人が鬱陵島からの連絡がないためたばこや食糧がないと訴えたこと、毎日子アシカを煮て食べているらしいということ等や夜は一緒に酒盛りをしたとも記してあり、竹島滞在8時間位で26日午前2時頃島を離れたとしている。

 この「鵬丸」について韓国の新聞「中央日報」が平成24年8月19日付けの電子版で独島義勇守備隊の活動を紹介し、昭和28年6月24日守備隊が日本の水産高校の練習船を西島の150メートル前で捕まえ、「独島は韓国領」であることを周知させ解放したと報じているが、事実無根の内容である。また漁業関係者として橋岡忠重が加わっていたが、彼は直前の6月10日に池田邦幸、八幡数馬と共同事業として竹島でのアシカ漁業の許可を島根県から得ていた。29日に帰航するとすぐ島根県庁水産課へ出向き、韓国人達が子アシカを捕えて食べていることを報告している。


3.「鵬丸」を追いかけた「美保丸」について


 「鵬丸」に乗って竹島へ行った隠岐高校の水産科岩滝克巳教諭は、その回想記で「26日朝帰途についたが、途中で、民間の底曳船をチャーターして取材に向かうS新聞の船と行き合った。」と書いている。「鵬丸」に毎日新聞と一緒に同乗させて欲しいと申し出て隠岐高校の市川校長に断られた新聞社が複数あったことは知られていた。毎日新聞の6月27、28日付けに里見記者の竹島渡航の記事と写真があることは前述したとおりだが、6月28日の朝日新聞地方版に「“日本に行きたい”‐広谷氏語る‐竹島の韓国人哀願」という記事がある。竹島のアシカ狩りに8年間の経験を持つ西郷町の漁業者広谷元次郎氏(64)が急に竹島が恋しくなり、25日夜所有する「美保丸」(15トン)に船員4人と乗り組み、26日昼頃竹島に到着した。丁度昼食時分で、島にいた韓国人達がアシカ料理や魚介類を食っていた。「鬱陵島と連絡がとれぬので米がない。」とこぼしていたので米6升を置いてきた。帰ろうとすると船に24、5才と34、5才の男が乗り込んできて「どうか日本へ連れて行ってくれ」と泣かんばかりに頼んできたため、隠岐に帰って相談してみるとし、26日午後2時頃竹島を離れたという主旨の記事である。この記事は独自で広谷元次郎が竹島へ行き、その話を聞いた形になっているが、前記の「鵬丸」の岩滝教諭の回想記や現在隠岐の島町でご健在の広谷満男氏による「美保丸」は自分の家所有の船であるとの証言、また乗組員の一人は父で、「君のおじいさんやお父さんに竹島へ連れて行ってもらった」と、ある新聞記者から話しかけられた記憶があると私に語られたこと、翌6月29日付けの朝日新聞島根版に「開拓へ本腰ー竹島付近の漁場」という記事と「韓国漁民とそのテント付近の標柱」という写真の掲載があること等から朝日新聞社が広谷に依頼して船をチャーターし、「鵬丸」の後を追った可能性が強い。そうであれば岩滝教諭の回想記に記述があるS新聞社はA新聞社の記憶違いと思われる。


4.巡視船「くずりゅう」と「おき」について


 朝日新聞島根版昭和28年6月28日付けに掲載の広谷元次郎氏による談話の最後に「帰り途で26日午後10時ごろ、保安部の警備船2隻が竹島の方向へ向かって行くのを見た」とある。この2隻は海上保安部巡視船「くずりゅう」と「おき」であった。この巡視船の行動は「くずりゅう」に同乗していた島根県水産商工部漁政課の澤富造、同水産課の井川信夫が6月28日付けで島根県知事恒松安夫に提出した『復命書』と添付写真や、海上保安庁『10年史』に載る写真で知られていた。その後『八管』と題する舞鶴にあった第八管区海上保安本部の『60年誌』にこれまで見なかった写真が掲載されていることに気づいたし、この巡視船での竹島行は島根県と海上保安部の秘密裡の合同調査と思っていたが、6月30日付けの朝日新聞島根版に海上保安部員が「島根県穏地郡五箇村竹島」という標柱を立てたり韓国人と話をしている写真等が4枚掲載されていることを発見した。同紙は「今年中には実現へ‐隠岐島民、竹島出猟で張切る」という記事も載せ西郷漁協組合長平井吉人、同組合員で戦前竹島での漁撈を体験した池田亀次郎、米津吉太郎、沢井小市の名とカナギ漁の名人吉井勝一の竹島への出漁の期待の談話も載せている。

 朝日新聞は単独の1新聞社の取材として昭和26年11月境高校水産科の「朝凪丸」で竹島渡海を実現した折、境海上保安部との親密な関係を築いたことを当時の寺尾宗冬記者が有峰書店新社の『歴史散歩道』「竹島取材補遺」で追憶して語っている。なお島根県長水産課の職員として参加した井川信夫は隠岐水産高校が隠岐商船水産高校という校名であった時代の3回生、大正15年3月漁撈科卒で、『隠岐水産高校70史』に「思い出」を寄稿している。過日竹島資料室に展示された井川の鳥打帽子で写った写真を見て「これは私の父です」と語られた女性がおられた。


5.銃撃を受けた巡視船「へくら」について


 第八管区海上保安本部が海上保安制度創設60周年記念として刊行した『八管ー60年の航跡ー』によると、島根県水産試験場の「島根丸」から竹島に韓国人がいるとの情報を得ると海上保安本部では昭和28年6月17日に、「竹島周辺海域の密航密漁取締りの強化」を決定した。そして朝日新聞の昭和28年7月14日付け全国版は、「韓国側から発砲‐竹島で保安庁巡視船撃つ」の記事を載せ、前日の朝巡視船「へくら」が竹島付近をパトロール中、韓国漁船3隻が自動小銃を持った韓国警官7、8人に囲まれて漁業活動をしているのを発見した。巡視船はボートを下ろし、島に上陸しようとしたところ韓国警官2人が通訳を連れて漕ぎ寄せ「ここは韓国の領域だから引揚げろ」と要求した。日本側のボートは巡視船に引揚げ、船に乗り移った途端、韓国警官はいきなり数十発を発砲、うち2発が「へくら」に命中したが人に被害はなかったと報じた。同じ朝日新聞社から発行された『朝日グラフ』(1953.9.16日刊)の「日韓の係争地『竹島』」の特集は、韓国船が護衛されながら漁をしている海域で「へくら」が停船すると3人の韓国人が小舟で近づき「へくら」に乗り込んで来て、「へくら」の責任者柏博次境海上保安部副部長と会話した。それぞれが竹島は自国の島と応酬した後韓国人3人は自分達の舟に帰り、「へくら」も動き出そうとした時、銃声が聞こえ2発が「へくら」に命中したとしている。

 また7月12日の銃撃後、13日に読売新聞が「韓国船側が発砲」、「竹島で巡視船発砲さる」と山陰新報、「巡視船へくら竹島で射たる」と朝日新聞が7月14日に報じた。この出来事の前後の日韓の動きを朝日新聞で調べ直してみた。まず6月25日、外務省が5月末韓国漁民が竹島に居たことについて抗議文を在日韓国代表部に送ったことを発表している。これに対し韓国外務部スポークスマンが7月2日に最近日本側が竹島で韓国の漁船及び漁民を捕えたのでこれを保護するため韓国海軍船艇を竹島に派遣すると発表した。そしてその後「へくら」銃撃事件が起きている。銃撃の後は7月13日在日韓国代表部に日本政府が抗議し、翌14日閣議で岡崎外相、石井運輸相がそれぞれ報告し、対処としては韓国が日本の抗議を認めない場合はアメリカ、イギリスの仲介によって事態を解決したいと述べ了承されている。また外務省は「竹島は日本領である」との歴史的見解も14日発表している。韓国側からは7月21日海軍参謀長の今後も必要に応じて艦艇を竹島周辺に派遣し、日本側の出方を監視することになろうという談話が発せられている。8月に入り4日に駐日韓国代表部が日本政府へ韓国領土である竹島へ6月23、27日、7月9、12日に日本側が不法侵入したと逆に抗議してきた。日本政府は8日にこれに反論する口上書を在日韓国代表部に送っている。この時期竹島で両国の自国領土とする標柱を建てたり相手側のものを抜いたりする行動があったが、10月6日、あの銃撃を受けた巡視船「へくら」が日本側通算3回目の「島根県穏地郡五箇村」と記した標柱を東島、西島の両方に建てる行動をとった。銃撃された時3人の韓国人と島の領有権をめぐって激しく応酬したという柏境海上保安部長が「へくら」から竹島に上陸し陣頭指揮をとったという。

 さらに10月18日付け朝日新聞の朝刊は「外務省、竹島へ調査団」として境海上保安部巡視船「ながら」が17日午前2時頃境港を出発して竹島に向かったことを報じ、同日夕刊では「領土標柱また消える辻代議士らが調査竹島問題」として内閣委員辻政信代議士、外務省川上事務官、第八管区海上保安本部古森公安課長等が18日正午頃竹島に300メートルくらいの所まで接近したが、シケのため竹島へは上陸出来ず約1時間にわたって海上から視察し、「へくら」が建てた標柱は抜かれていたことを目撃した。なお外務省の川上事務官は昭和41年『竹島の歴史地理学的研究』を刊行する川上健三氏である。なお最近柏境海上保安部長のお孫さんのご健在の情報を得ているがまだ聞き取り等させてもらっていない。


6.島根県取締船「島風」の乗務員


 昭和29年久見漁協の11人の漁師が島根県の依頼を受けて、竹島での日本側の最後の漁業権行使を行ったことは、久見漁協の組合長で自らも参加して『竹島漁業権行使の経過』なる報告書を脇田敏氏が残されており、その手記をご子息脇田和彦氏が島根県に寄贈されたため詳細に確認することが出来た。脇田組合長に同行したのは佃忠親、八幡才太郎、前田峯太郎、佃祥二郎、浜田政三郎、河原春夫、古吉保夫、梅原秀造、八幡尚義、池田素善の10名である。またその漁師達を乗せたのが島根県の取締船「島風」であり、「島風」の船員ではこれまで松村吾吉船長の名しか知られていなかった。平成26年4月5日竹島資料室を訪れられた一人の男性の方が「私は昭和29年「島風」の乗組員として竹島にいったことがある。」と語りかけてこられた。現在東京在住で松江市北堀町に家があるので帰って来たと言い野津豊、現在82才と名乗られた。資料室に居たスタッフと共に話をお聞ききした。野津さんは昭和6年生まれ、父角次郎は隠岐西ノ島出身で警察官だった。昭和25年島根県水産部(のちの水産商工部)漁政課職員で取締船「島風」の乗組員となった。「島風」は現在の新大橋近くにあった松江港務所に管理されていた。野津さんによるとその「島風」は昭和29年6月野津さんによると行先、目的も知らせず出航が命じられた。松江からは本庁の職員井川信夫、船に直属する船長松村吾吉、機関長淀川義春、無線局長山根岩雄、甲板員として天野義孝、高野良治と野津の7人だった。隠岐の久見で漁師を乗せて再び海上に出たが漁師達との交流、会話の記憶はないという。漁師達も家族に竹島行きを伝えず行動するよう指示があったことは漁業組合長脇田敏の手記に書かれている。竹島では積んできた小舟を降ろし、漁師達がわかめを刈り取ったりアワビを獲る漁労を数時間行った。野津さんが持参されたアルバムに「島風」に運ばれた太く長く成長したワカメを持ち上げている同僚の天野甲板員が写ったものと自らが竹島の東島全景を撮影した写真等が貼られていた。

 なお船長の松村、甲板員の天野、高野は浜田市の出身者だったと野津さんは記憶されているが、同じ時期島根県の水産課に直属する浜田市にあった県水産試験場に勤務されていた児島俊平氏は上記3人は確かに浜田の人で自分も親しくしていたが、すでに皆他界されていると語られた。その後も松江に帰郷されると竹島資料室を訪れ昭和29年の島風での竹島渡航の思い出を語ってくださっている野津さんに平成27年2月22日の「竹島の日」の式典で溝口島根県知事から感謝状が贈呈された。

(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)

「島根丸」と昭和28年の調査航路図

【写真1-1】「島根丸2世」『島根県水産試験場八十年史』より

 

昭和28年「島根丸」から竹島へ上陸した神藤場長(中央)等

【写真1-2】昭和28年「島根丸」から竹島へ上陸した神藤場長(中央)等『島根県水産試験場八十年史』より

 

「鵬丸」戦場で韓国人と話をする里見記者

【写真2】「鵬丸」船上で韓国人と話す里見記者(毎日新昭和28年6月28日付)

 

「美保丸」に関する記事

【写真3】「美保丸」に関する記事(朝日新昭和28年6月28日付)

 

監視する海上保

【写真4】へくら銃撃後ヘルメット、防弾チョッキ着用で竹島を監視する海上保安庁部員(第八管区海上保安本部提供)

 

聞き取りに応じる野津氏

【写真5】聞き取りに応じる野津豊氏


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