• 背景色 
  • 文字サイズ 

杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第17回明治38年松江市に居た韓国人教師安泳中について


明治38(1905)年2月22日、竹島が島根県所属と告示された時、松江には安泳中という人物がいました。彼は韓国から日本へやって来た韓国語教師で、当初京都府立商業学校にいました。京都時代、彼は神戸市に「朝日塾」という私塾を作り、来日中の朝鮮人青年の教育にあたっていた亡命政治家朴泳孝と親交を結んでいました。

明治35年9月6日付で、島根県知事金尾稜厳が外務大臣小村寿太郎に提出した報告に、「本月五日韓国亡命者安泳中カ県下松江市皆美館ニ投宿候処、同人ハ朴泳孝等ト親交アル由ニテ、京都ニ於テ二十四五名ノ学生ヲ養成中ナルモ資金ニ乏シキヲ以テ這回、山陰地方漫遊ノ途ニ上リ朴泳孝ノ揮ごう品並ニ自分ノ揮ごうヲ有志ニ買受ケ貰ハン為メ来松シタルモノニシテ、凡ソ一週間滞在ノ上、県下簸川郡杵築町地方へ漫遊スル旨申居リ、別ニ怪ムヘキ挙動無之此段及報告候也」とあります。この当時、朝鮮人が来県した時は、県知事が外務大臣、内務大臣、警視総監にその動向を報告する義務があったのです。なお、安泳中が私淑していた朴泳孝については、私の研究レポート「清水常太郎の『朝鮮輿地図』について」でも触れていますのでご覧ください。

さて、明治35年に松江市に来た安泳中は、翌年4月に島根県立商業学校の教師として再び来県しました。同学校の歴史を継続する島根県立松江商業高校の『松江商業高等学校百年史』によると、「初代橋本校長が、わが国と韓国とは将来密接な関係をもつにきまっているから韓語科を設けようと、明治36年に教師を物色」とありますから、最初に来県した明治35年に安泳中と橋本校長の間に何らかの接触があり、同校の韓国語教師への道が開かれたと思われます。現在の松江商業高校には安泳中自筆の履歴書も残っています。

彼に接触した人たちはその日本語の堪能さに驚嘆していますが、履歴書を見ると韓国で日本語学校に通っていますし、朝鮮の文部省にあたる役所に勤務したこともあるようです。

彼を招聘した橋本基一校長は韓国への関心が強く、この年の夏休みには生徒代表二人を連れて1ヶ月の韓国視察旅行に出かけています。この校長の行動から、県立商業学校では朝鮮への関心と友好の機運が高まり、卒業生には朝鮮に渡って就職する者が続出したそうです。また、橋本校長は後に志願して朝鮮の釜山高等商業学校の校長になっています。

安泳中は松江市民とも積極的に交流しました。特に松江にあった漢詩の結社「剪松吟社」に入り活躍しました。友人としては、松江市宍道町の本陣木幡家の十三代目木幡久右衛門(黄雨)がいました。木幡家には「黄雨詞兄左右(詩の先輩黄雨氏にささげる)、鶏林愚弟(朝鮮人の弟)安泳中」と自署した、木幡家の別荘周辺の自然を安泳中が即興で詠った漢詩が墨書されて残っています。ちなみに、木幡黄雨は松江市内に私立図書館を建設するなど著名な文化人でした。

安泳中が島根県立商業学校へ赴任して2年目の明治37年、日露戦争が起こりました。朝鮮半島に勢力を伸ばそうとする日本とロシアの衝突でした。その年の剪松吟社の例会で、戦勝の続く日露戦争の「戦捷祝賀」と題して6人が7文字の漢字で1行ずつを作る連句が席題となりました。他の人達が「我兵奮戦一当千(わが兵奮戦、一もて千にあたる)」のような直接戦場の情景を表現したのに対し、5行目を受けもった安は、「男児立志是固然(男児、志を立つ、是れ固り然り)」と他の人達との連携を重視しながらも戦争にふれず発句しました。故入谷仙助氏は、その著『山陰の近代漢詩』で、「祖国の支配をめぐって戦われている戦争の最中、戦勝に騒ぐ人々の中に立ちまじる苦渋が、涵斎(安泳中の号)の付句の中にはある」と評しています。

安は明治38年に島根県を離れ、同年8月から明治40年3月まで長崎高等商業学校(現在の長崎大学)の韓国語教師になっています。この時期、彼は『韓語』という表題の教科書を作りますが、現在広島大学で日本における朝鮮語教育の歴史を研究されている山田寛人氏によると、この教科書はわかりやすいと評判になり、全国の多くの高等商業学校が使用したそうです。

明治40年、政治犯の朴泳孝が朝鮮政府の特赦で帰国することになると、安も同行して帰国しました。帰国直後の朴の歓迎会には、彼が体調悪かったので安が出席しました。会場には鄭在稿という人物がピストルを密かに持ち込み、朴の暗殺を計画していましたが、朴の姿がないことを知ると自分に向けて発砲し、会場で自殺しました。

明治42年9月、安は再び日本へ現れました。山口高等商業学校(現在の山口大学)の韓国語教師に招致されたのです。しかしすでに彼は病魔に侵されている身でした。山口の赤川病院、京都医科大病院等に通ったものの回復せず、明治43年11月休養のため祖国に向かいますが、釜山到着直後に逝去しました。享年41歳でした。

 安泳中自筆の書(写真)

安泳中自筆の書


(主な参考文献)

・『松江商業高等学校百年史』島根県立松江商業高等学校平成14(2002)年

・野津静一郎「明治36年日誌」個人蔵

・『山陰の近代漢詩』入谷仙助・大原俊二山陰の近代漢詩刊行会平成16(2004)年

・『韓国近代史資料集成要視察韓国人挙動』1〜3巻韓国国史編纂委員会平成13(2001)年


お問い合わせ先

総務課

〒690-8501 島根県松江市殿町1番地
TEL:0852-22-5012
FAX:0852-22-5911
soumu@pref.shimane.lg.jp