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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第7回松島がリァンクール(リャンコ)島に


これまでお話ししてきましたように、江戸時代日本では現在の鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいました。それが幕末から明治初期にかけて鬱陵島が「松島」、「松島」が「リァンクール(リャンコ)島」と呼び名に変化が生じました。そのきっかけは、コロンブス、マゼラン等によって開幕した大航海時代によってアジア、アメリカ、ヨーロッパが認識上急速に接近したこと、船が帆船から蒸気船へと変化しその機動性が倍増したこと、水産業の面で捕鯨が広い海域で実施されるようになり、遠洋では現地で燃料の薪や水の補給をする必要が生まれたこと等です。

そうした情勢の中で、日本海にも外国船が姿を見せることになります。まず天明7(1787)年フランス海軍の船が鬱陵島の近くを航行し、最初に島を望見した人物の名前をとって鬱陵島を「ダジュレー島」と命名して去りました。続いて寛政元(1789)年イギリス船アルゴノート号も鬱陵島を発見し、船名を島の名としました。同じ一つの島でしたが両国が測定した緯度、経度に相違があったために、ヨーロッパの海図には朝鮮に近い西側にアルゴノート島、東側にダジュレー島と二つの別の島として描かれようになりました。

この日本海の二つの島に新しい反応を示したのが、ドイツ人シーボルトでした。彼は文政6(1823)年に来日し、長崎で商館の医師の仕事に従事しますが、長崎市外の鳴滝に屋敷を与えられ日本人の治療や医術教育に励み、高野長英等多くの日本人門下生を育てました。また、彼は日本の自然および人文科学上の研究も命じられており、100人を超すと言われる日本人の友達や門下生の協力で膨大な資料を入手しました。帰国の時期がせまった文政11(1828)年、門外不出とされる伊能図等多数の日本地図を幕府天文方高橋作左衛門がシーボルトに贈ったことが発覚し、作左衛門は逮捕され牢獄で死にました。シーボルトも約1年出島で軟禁され、文政12年国外追放の形で長崎を去りました。(その後シーボルトはのちオランダ商事会社の顧問として再来日しています)。文政12年オランダのライデン市で帰国後の生活を開始した彼は当時の日本に関する知識の最高の集大成といわれる『日本』の執筆にかかりました。注目は附図「日本図」です。彼は当時ヨ-ロッパに流布している海図のアルゴノート島を、日本でいう「竹島」(実際にはローマ字でたかしまと誤記しています)に、「ダジュレー島」を「松島」に符合すると考えて記載しました。ダジュレー島は緯度、経度から鬱陵島の位置と重なりますが、その西のアルゴノート島やシーボルトに竹島とされた島は架空の海上に位置することになりました。なお長崎歴史文化博物館の「日本図」を測定させてもらったところ、縦63センチ、横83センチで1840年制作とありました。

さて、それからまもなくの嘉永2(1849)年、隠岐島の周辺に数多くの外国船が姿を見せました。あの有名なペリーが浦賀に4隻の蒸気船で現れる直前のことでした。隠岐へはこの年の2月18日、現在の西ノ島町三度(みたび)へ大型外国船が現れ、16人の者が上陸しました。2月22日には現在の隠岐の島町沖へ2隻の異国船が現れ、さらに3月になると次々新しい船が姿を見せました。江戸幕府から預かり地として隠岐国支配を命じられていた松江藩は藩士を出動させ、大砲を隠岐に運んで警備を固めました。

この嘉永2年現在の竹島に上陸した船がありました。フランスの捕鯨船リァンクール号です。彼等はこの島を無人島あるいは一つの岩礁と認識し、リァンクール島、リァンクール・ロックと名付けて去り、まもなくヨーロッパの海図にはアルゴノート島、ダジュレー島と共にその名が登場するようになりました。なお現在の竹島へはロシア船、イギリス船も上陸しそれぞれ別の島名をつけた事実もありますが、歴史的意義は少ないので省略します。またこの時期のヨーロッパの海図や地図は日本へももたらされ、勝海舟が監修した「大日本国沿海略図」(慶応3(1867)年)には、朝鮮半島から隠岐島の間に西からアルゴノート島、ダジュレー島、リァンクール島が描かれています。

しかし、問題は架空の場所に記載されたアルゴノート島、別名竹島です。1854年鬱陵島とその周辺をくわしく調査したロシアの軍艦パルラダ号はアルゴノート島(竹島)は存在しないと報告しました。その結果ヨーロッパの海図や地図はその場所を点線で示したり、「現存せず」とした後、もまなく記載しなくなりました。日本では明治13(1880)年軍艦「天城」が調査し、鬱陵島を松島、その北東にある小島を竹島と報告しますが、日本海軍が長期間かけて調査して作成した「朝鮮全岸」という海図は、松島とリァンクール島のみを記載しています。

その後現在の竹島はリァンクール島の呼び名が定着していきましたが、呼び方が短く訛(なま)ってリャンコ島とされることもありました。明治37(1904)年日本政府に同島の「領土編入並びに貸下願」を提出した中井養三郎はその文面に「朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海ニ俗ニりやんこ島ト称スル無人島有之候」と書いています。現在の隠岐の島町の古老の皆さんと竹島のことを話しあう時、「リャンコ島、リァンコ島」という発言はしばしば聞くことがあります。

さて、中井養三郎の願出を受けた政府は検討のため島根県にも打診をし、島根県は隠岐の行政を管轄する隠岐支庁島司の東文輔に所管の可能性、島の名称等の意見を求めました。東文輔は「右ハ我領土ニ編入ノ上隠岐島ノ所管ニ属セラルルモ何等差支無之、其名称ハ竹島ヲ適当ト存候」と述べ、竹島とすべき理由に江戸時代の竹島、松島が鬱陵島が竹島から松島に呼称が変わり存在するのに、誤称により消えた竹島の名をリァンクール(リャンコ)島にあてるべきと主張したのです。この回答は島根県から政府に伝えられ、明治38(1905)年2月内務省の訓令の形で現在の竹島が島根県の所属と島の呼称が正式に竹島となったのです。江戸時代の松島からリァンクール(リァンコ)島の呼び方をへて現在の竹島になる島名の変遷の歴史を理解いただいたでしょうか。

 


(主な参考文献)

・川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院1966年

・田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県1965年

・田保橋潔「鬱陵島その発見と領有」『青丘学叢』

・内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版2000年

・『新修島根県史』島根県1968年

・『隠岐島誌』島根県隠岐支庁1933年


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